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## 秘密の扉の向こう側

その日、私はいつものように「サニーサイド・ホテル」の受付に立っていた。午後3時。退屈な時間に一人、カウンター越しに客の顔をぼんやりと眺めていた。このホテルは、街の中心部から少し離れた、古びた雑居ビルの一角にある。派手な看板も無く、ただ静かに、しかし確かな存在感を放っていた。

私の名前は佐倉美紀。26歳。このホテルのフロントとして働き始めて3年目になる。特に華やかな仕事でもなく、かといって特別に楽しいわけでもない。ただ、ルーティンワークをこなす毎日。時折、カップルが楽しそうに部屋に入っていくのを見て、人生の輝かしい一面を垣間見るような感覚に陥ることもあったけれど、それは一瞬の出来事だった。

今日もまた、少し気怠い午後の光が窓から差し込み、埃の粒子がキラキラと舞っていた。次のチェックインまであと少しという時、一人の女性がフロントに現れた。30代後半だろうか。上品なワンピースに身を包み、落ち着いた雰囲気だが、その目元には微かな疲労の色が浮かんでいた。

「チェックインをお願いします。」

低く落ち着いた声だった。彼女が指差したのは、シングルルーム。ビジネス利用だろうか。私がキーカードを発行しようとしたその時、彼女が小さく溜息をついた。

「あの…実は、少し変わったお願いがあるんですけれど。」

私は顔を上げ、彼女に視線を向けた。何かあったのだろうか。

「なんでしょうか？」

「えっと…その、私、今、とても寂しいんです。誰かと話したいというか、慰めてほしいというか…。」

彼女はそう言うと、顔を伏せた。その仕草に、私は言葉を失った。ラブホテルで、そんなことを言うお客さんは初めてだった。

「あの…私どもは、その、宿泊施設ですので…」

言葉を探しながら私がそう言うと、彼女はゆっくりと顔を上げた。その瞳は、潤んでいた。

「分かっています。でも、他に誰にも頼れる人がいないんです。」

彼女はそう言って、手に持っていたバッグをそっと床に置いた。中から取り出したのは、小さな写真立てだった。そこに写っていたのは、笑顔の男性と、小さな子供の写真だった。

「夫は、仕事で海外にいるんです。子供は…まだ小さいので、預けて来られなくて。」

彼女はそう言って、また俯いた。彼女の名前は、藤原綾子さん。夫の海外赴任に伴い、一人でこの街で暮らしているという。寂しさを紛らわせるために、時々こうしてホテルに泊まることがあるのだと話してくれた。しかし、決して誰かと会うためではなく、ただ一人、静かに時間を過ごすためだと言った。

私は少し考えた後、言葉を選んで言った。

「もし、よろしければ…私も、少しだけお話をお聞きしますよ。フロント業務の合間ですが。」

綾子さんは、驚いたように顔を上げた。そして、ゆっくりと微笑んだ。

「本当ですか？ありがとうございます。」

その日から、綾子さんは定期的に「サニーサイド・ホテル」を訪れるようになった。シングルルームの予約と共に、時にはフロントに立ち寄って、他愛のない話をしていくこともあった。彼女は、夫との関係が冷え切っているわけではないが、物理的な距離と時間の経過と共に、心がすれ違ってしまっていると話してくれた。

ある日、綾子さんは少し興奮した様子でフロントに現れた。

「佐倉さん、聞いてください！昨日、夫から電話があって、近々帰ってくることになったんです！」

その笑顔は、私が初めて彼女に会った時の疲労の色とは全く違っていた。心から喜びを爆発させているのが伝わってきた。私も自分のことのように嬉しくなった。

「それは素晴らしいですね！おめでとうございます！」

「ええ。これで、また家族三人で暮らせます。」

彼女の言葉を聞きながら、私はなぜか少しだけ寂しさを感じた。彼女との会話は、私にとって退屈な日常に彩りを添える貴重な時間だったからだ。

その次の週、綾子さんはいつものようにホテルを訪れた。しかし、その表情には、以前のような輝きはなかった。チェックインを済ませ、部屋に入ろうとした彼女が、ふと立ち止まった。

「あの…佐倉さん。」

「はい、なんでしょうか？」

「実は…夫が帰ってくる前に、どうしても叶えたいことがあるんです。」

彼女はそう言って、私の顔をじっと見つめた。その目に宿る光は、以前の寂しさとは違う、何か強い意志のようにも見えた。

「な、なんでしょうか？」

私は、少し戸惑いながら尋ねた。

「私…ずっと、夫以外の人と、愛し合ってみたいと思っていたんです。」

彼女の言葉は、私の耳を疑うほど衝撃的だった。上品で落ち着いた彼女が、そんなことを考えていたなんて。

「それは…」

私が言葉を続ける前に、綾子さんは微笑んで、小さな紙を私に差し出した。そこには、見慣れない男性の名前と電話番号が書かれていた。

「もし、私がここにいない間に、この人が来たとしたら…彼を、私の部屋に案内してあげてください。」

彼女はそう言って、私に鍵を預け、そのままホテルの中へと消えていった。私は、その紙を握りしめたまま、しばらく呆然としていた。

数日後、その紙に書かれていた男性が「サニーサイド・ホテル」に現れた。見るからに軽薄そうな男だった。彼は、受付にいた私に、綾子さんの名前を告げた。私は、綾子さんの指示通り、彼を彼女の部屋へと案内した。

その日以来、私の仕事は少しだけ変わった。時折、綾子さんの部屋を訪れる見知らぬ男性がいた。彼らは皆、綾子さんが抱える寂しさや、満たされない欲望を埋めるためにやってきているのだろうと、私は勝手に想像した。

私が知らないところで、このホテルで、様々な人間模様が交錯していた。それは、私にとって、今まで見たことのない世界だった。人々は、それぞれの理由で、この「サニーサイド・ホテル」のドアを開け、秘密の扉の向こう側で、欲望や孤独、そして刹那的な喜びを分かち合っていたのだ。

ある雨の日、綾子さんが私に話しかけてきた。彼女の顔には、穏やかな、しかしどこか寂しげな微笑みが浮かんでいた。

「佐倉さん、私はもうすぐ、この街を出ます。」

「え…お、夫と一緒に？」

「いいえ。夫とは…もう、一緒に暮らせません。」

彼女はそう言って、遠い目をした。そして、ゆっくりと、しかしはっきりと話し始めた。夫との関係は、彼女が想像していた以上に冷え切っていたこと。そして、あの短い期間に、彼女が体験したことの意味を語ってくれた。

「私は、ただ寂しかっただけなのかもしれません。でも、あの時間があったからこそ、私は自分自身を見つめ直すことができました。そして、本当の自分に嘘をついて生きていくことはできない、ということに気づいたんです。」

彼女はそう言って、私の手を取った。その手は、少し冷たかった。

「このホテルは、私にとって、特別な場所になりました。ここで、私は少しだけ、自由になれた気がします。」

綾子さんは、そう言うと、深々と私に頭を下げた。

「佐倉さん、ありがとうございました。あなたの優しさを、忘れません。」

そして、彼女はホテルの外へと歩き出した。雨に濡れたアスファルトの上を、彼女の小さな背中は徐々に遠ざかっていった。

私は、その後も「サニーサイド・ホテル」で働き続けた。時折、綾子さんのような女性が現れ、またある時は、全く異なる人生を歩む人たちが、このホテルで一時を過ごした。私は、ただ受付に立ち、鍵を渡し、彼らの物語の片鱗に触れるだけだった。

このホテルは、まるで人間の心の深淵を映し出す鏡のようだった。誰もが、表には出せない顔を持っている。そして、この秘密の扉の向こう側で、それを少しだけ解放する。それは、決して明るいものではないのかもしれない。しかし、それは紛れもない「リアル」な姿なのだと、私は思うようになった。

ある日、私はふと、自分の心に問いかけてみた。私自身は、どんな人間なのだろうか、と。私は、誰かの秘密の物語の一部になることができるのだろうか。それとも、ただ、その物語の傍観者でしかないのだろうか。

答えは、まだ見つからない。ただ、この「サニーサイド・ホテル」に、いつか私も、自分自身の秘密の扉を開けて入っていく時が来るのかもしれない、という予感が、私の胸の奥底で静かに芽生えていた。そして、それは決して悪い予感ではなかった。