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## 幻影のスクリーン

「お前の母さん、激しいのが好きなんだってさ。」

その一言が、静かに凪いでいた僕の日常に津波のように押し寄せた。きっかけは、我が映画研究部の友、佐々木だった。

佐々木は映像機器に関しては天才的な手腕を持つ男だった。古い8ミリフィルムを現代のデジタルデータに変換する技術もさることながら、機材のメンテナンスから撮影、編集に至るまで、彼の指先から生み出される映像は常に我々部員を圧倒していた。しかし、彼の才能は、時として彼の常識を凌駕してしまう。特に、年上の女性に異常なほどの執着を見せる傾向は、我々仲間内では半ば伝説化していた。

そんな佐々木が、何を思ったのか僕の母に興味を持ったのだ。僕の母、優子。今年で四十八歳になる彼女は、僕の知る限り、穏やかで、優しくて、そしてどこか儚げな女性だった。近所の子供たちが遊びに来れば、必ず温かいお菓子とジュースを用意して迎える。道端で怪我をした野良猫を見れば、必ず家に連れ帰って手当てをする。そんな、絵に描いたような「優しいお母さん」だった。

「いや、マジで言ってんだって。この間、母親に頼まれてビデオカメラ借りに行った時、優子さんと少しだけ話したんだけどさ。」佐々木は真剣な顔で続けた。「その、なんていうか、雰囲気があんんだよ。静かなんだけど、内に秘めたものがあるというか。それに、あの人、結構色っぽいぜ？」

色っぽい？ 僕の母が？ 確かに、母は年齢よりも若く見えると言われることはあった。しかし、それはあくまでも「若い」という形容であって、「色っぽい」という言葉が似合うような気配は、僕には全く感じられなかった。むしろ、母は少しばかり不器用で、時折自分の容姿に無頓着なところさえあった。

「母さんが、小便臭い年下の学生なんか相手にするわけないだろう。」僕は思わず強く言い放ってしまった。佐々木の顔が少し曇ったが、構わなかった。この妄想は、あまりにも現実離れしていたからだ。母が僕以外の男性と親密な関係を持つことなんて、想像もできなかった。特に、佐々木のような、軽率で強引な男に母が惹かれるはずがない。

「でもさ、可能性はゼロじゃないだろ？ なんか、秘密とか持ってそうな感じなんだよ。映画でよくある、あの、ミステリアスな感じ。」佐々木は目を輝かせながら語る。「俺、そういうのが好きなんだ。優子さんの秘密に迫ってみたい。なんとか、アタックさせてくれよ！ 撮りたいんだ、優子さんの本当の姿を。」

撮りたい？ 母の秘密を？ 彼の言葉に、僕は今まで感じたことのない種類の不快感を覚えた。佐々木の「好き」は、いつだってどこか歪んでいた。彼は常に、被写体の「本当の姿」を求めた。そして、その過程で、時には相手のプライベートに深く踏み込み、傷つけることすら厭わなかった。

「無理だ。母さんはお前なんか相手にしないよ。」僕は断言した。それは確信でもあった。母はそんな軽薄な誘いに乗るような人ではない。しかし、一つだけ、僕の心に影を落とす懸念があった。それは、母が「優し過ぎる」ということだった。

母の優しさは、時に危ういほどの無防備さにつながっていた。誰に対しても分け隔てなく接し、相手の言葉を真に受ける。悪意を持って近づいてくる人間に対しても、それをすぐには見抜けない。かつて、近所の強引なセールスマンに根負けして、必要のないものを何度も買わされたことがあった。その時でさえ、母は相手を責めることなく、ただ申し訳なさそうな顔をしていた。

そんな母が、佐々木のような粘着質な男の執拗なアタックに、どこまで耐えられるだろうか。断るという行為そのものが、母にとっては大きな負担になるのではないか。もし、母が佐々木の「好意」を断り切れず、わずかでも「相手」をしてしまったら？ その想像が、僕の胸を締め付けた。

「頼むよ！ お前だって、母親のこと心配してるだろ？ 俺なら、優子さんを守ってあげられる。」佐々木はさらに追い打ちをかけるように言った。守ってあげる？ 僕の母を？ その言葉は、僕の怒りをさらに煽った。母は佐々木に守られるような存在ではない。そして、母にとっての「守り」は、佐々木が考えるようなものではないはずだ。

僕は佐々木の真剣な眼差しと、その言葉の裏に隠された、彼の歪んだ欲望を見抜こうとした。彼は本当に母に「惹かれて」いるのか。それとも、また新たな「獲物」を見つけ、それを映像に残すことに執念を燃やしているだけなのか。

「母さんは、お前のカメラのレンズを通して見られるような、そんな薄っぺらい存在じゃない。」僕は静かに言った。だが、声には微かな震えが混じっていた。「それに、お前が思っているような激しいものなんて、母さんの中には何もない。ただ、優しいだけだ。」

「本当にそうかな？」佐々木は胡散臭く笑った。「俺には、違うように見えたけどな。静かな湖面の奥底に、激しい流れを秘めているような。そういうのが、俺はたまらなく好きなんだ。」

その夜、僕は家に帰っても落ち着かなかった。食卓についた母は、いつもと変わらず穏やかな表情で僕の食事を用意してくれた。僕の幼い頃の写真を眺めながら、楽しそうに昔の話をした。母の横顔は、確かに優しさに満ち溢れていた。しかし、佐々木の言葉が、その優しさの中に潜む何かを、僕に見え隠れさせているような気がした。

「お母さん、最近、何か変わったこととかあった？」僕は何気ないふりをして聞いてみた。

母は少し首を傾げた。「変わったこと？ そうねぇ…。特にないと思うけど。あ、そういえば、この前、古いビデオカメラが壊れたから、修理に出したのよ。修理の人に、すごく丁寧に見てくれて、感謝されたわ。」

古いビデオカメラ？ 母が、僕の知らないところで、古いビデオカメラを修理に出した？ その事実が、僕の胸に小さな波紋を立てた。佐々木は、母のビデオカメラを借りに行ったと言っていた。もしかしたら、母はあの時、佐々木の「興味」に気付いていたのかもしれない。そして、彼に「借りる」という口実で近づかれた時、断りきれなかったのかもしれない。

さらに僕を不安にさせたのは、母が昔、演劇部に所属していたという事実だった。それは、僕が生まれる前の話で、母はほとんど語らなかった。しかし、母の持っている古いアルバムの中には、舞台衣装を着て輝く母の姿が収められていた。その時の母は、今の静かで控えめな母とはまるで違う、情熱的で、力強い表情をしていた。

もし、佐々木が母の内に眠る「演劇」への情熱や、過去の輝きに触れたとしたら？ 彼はそれを「激しいのが好き」だと誤解するかもしれない。そして、母の優しさを利用して、さらに深く踏み込もうとするかもしれない。

僕はベッドの中で、何度も寝返りを打った。佐々木は、母の過去の秘密や、秘められた情熱にまで「興味」を持つだろう。そして、それを映像に収めるために、あの手この手で母に近づくだろう。母の優しさは、彼の欲望の盾にはならない。むしろ、彼の執拗さを、さらに増長させるだけかもしれない。

僕は母の「優しい」という部分を、いつの間にか「弱い」とすり替えて考えていたのかもしれない。母はただ優しいのではなく、人の心の奥底にある脆さや弱さを見抜き、それを受け止めようとする力強さを持っているのではないか。そして、その優しさ故に、佐々木のような人間の悪意をも、無垢に受け入れてしまう可能性がある。

次の日、僕は映画研究部の部室で、佐々木に詰め寄った。

「母さんのこと、もう放っておいてくれ。」

佐々木は、いつも通りスマホで何かをいじりながら、気だるげに答えた。「えー、まだ何も始めてないって。それに、まだ俺の知らない優子さんがいるんだろ？」

「俺の母さんは、お前の興味本位の被写体なんかじゃない。」僕は声を荒げた。

佐々木は顔を上げ、ニヤリと笑った。「被写体ねぇ…。でもさ、お前の母さん、実はカメラの前で、すごく生き生きするタイプなのかもしれないぜ？ なんていうか、隠された才能とか、そういうのが眠ってそうな感じなんだよ。」

その言葉に、僕は背筋が凍るような感覚を覚えた。佐々木は、母の「優しさ」の裏にある「演技力」や「表現力」に気づいているのかもしれない。そして、それを引き出し、映像に残すことに、異常なまでの執念を燃やしている。

「お前が母さんに近づくなら、俺も黙って見てるわけにはいかない。」僕は決意を固めた。僕の母は、僕が守る。佐々木の歪んだレンズから、母の本当の姿を守り抜く。

しかし、どうすれば良いのか。直接的な対立は、かえって母を巻き込むことになるかもしれない。佐々木の粘り強さと、母の優しさの間で、僕はどのように立ち回れば良いのか。

母の「優し過ぎること」が、僕にとって、これほどまでに重くのしかかる日が来るとは、思ってもみなかった。それは、母の弱さではなく、母の人間的な深さであるのかもしれない。そして、その深さに触れようとする佐々木の狂気的な執着と、僕は向き合わなければならない。

幻影のスクリーンに映し出される母の姿は、果たして佐々木の見るような「激しい」ものなのか、それとも、僕が知っているような、ただひたすらに優しい、しかしどこか危うさを孕んだものなのか。僕はその答えを見つけ出すために、静かに、しかし決然と、佐々木の影を追うことを決めた。僕の静かな日常は、もう元には戻れないのかもしれない。それは、母の優しさが、僕の新たな戦いを、静かに幕を開けさせたのだ。