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## 奈落の入り口

「緊張しますね…」

控え室で、美咲は小さく呟いた。鏡に映る自分は、普段より少しだけ濃いメイクのせいか、どこか別人のように見える。膝の上で握りしめた手が、じっとりと汗ばんでいるのがわかった。

夫の会社が倒産し、住宅ローンと生活費のために、藁にもすがる思いでこの風俗店の求人に応募したのだ。もちろん、気が進んでのことではない。これまで、パートで家計を助けながら、慎ましくも幸せな家庭を築いてきた。まさか自分がこんな場所に来ることになるとは、想像すらしていなかった。

「次は、美咲さん、どうぞ」

受付の女性に呼ばれ、美咲は深呼吸をして立ち上がった。心臓が早鐘のように打ち、足が鉛のように重い。

面接室は、意外にも簡素だった。奥に座る男性は、黒いスーツに身を包み、無表情でこちらを見ている。どこか威圧感のある男だった。

「美咲さん、履歴書は拝見しました。ご主人の会社の倒産で、生活費に困っているとのことですね」

男は事務的な口調で言った。

「はい…」

「この仕事は、当然、楽ではありません。お客様を満足させるためには、それなりの覚悟が必要です」

美咲は覚悟を決めてきたつもりだった。しかし、男の言葉には、それ以上の意味が含まれているような気がした。

「当店の特徴は、お客様の層の良さです。紳士的な方が多く、無理な要求をされることはまずありません。ただ、お客様の満足度を最大限に高めるために、特別な研修を行っています」

特別な研修？美咲は首を傾げた。

「研修では、お客様とのコミュニケーション能力や、マッサージの技術などを学んでいただきます。そして、お客様に安心してサービスを受けていただくために、実践的な研修も含まれます」

実践的な研修？美咲は不安になった。履歴書には、本番行為は一切ないと書かれていたはずだ。

「その…、本番行為はないと伺っていますが…」

美咲は恐る恐る尋ねた。

男はニヤリと笑った。

「もちろん、本番行為は禁止です。あくまで、研修ですから。ただ、お客様の気持ちを理解するためには、ある程度のリアリティが必要なんです」

男はそう言うと、デスクの引き出しから、ローションを取り出した。

「まずは、マッサージの練習から始めましょうか」

美咲は戸惑った。これは、おかしい。明らかに、求人内容と違う。しかし、今ここで拒否すれば、生活は行き詰まってしまう。

「あの…、私、マッサージの経験は…」

「大丈夫です。私が丁寧に指導します。まずは、服を脱いでください」

美咲は息を呑んだ。全身が震え、冷や汗が噴き出す。逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。しかし、同時に、何かを失うような恐怖も感じていた。

「で、でも…」

「安心して。これは、研修ですから。すべては、お客様のため、そして、あなたのためです」

男はそう言うと、美咲に近づき、肩に手を置いた。その手が、ぞっとするほど冷たく感じた。

美咲は、震える手で服を脱ぎ始めた。まるで、操り人形のように。

部屋には、男の息遣いと、美咲のすすり泣く声だけが響いていた。

数時間後、美咲は抜け殻のようになって控え室に戻った。身体は鉛のように重く、心はズタズタに引き裂かれていた。

他の応募者たちは、それぞれに表情を失っていた。中には、泣き崩れている女性もいた。

美咲は、これが奈落の入り口だと悟った。一度足を踏み入れてしまえば、もう二度と抜け出すことはできないかもしれない。

しかし、生活のためには、耐えなければならない。そう言い聞かせながら、美咲は俯いた。

その夜、美咲は家に帰ると、夫に何も言えなかった。ただ、夫の顔を見るたびに、罪悪感に苛まれた。

翌日から、美咲は風俗店で働き始めた。客は、男が言っていたような紳士的な人ばかりではなかった。中には、下品な言葉を浴びせてくる者や、無理な要求をしてくる者もいた。

美咲は、毎日、屈辱と絶望を味わった。しかし、夫と子供たちのために、必死に耐えた。

数ヶ月後、美咲は、店の裏の実態を知ることになる。店長は、客からのバックマージンをかすめ取り、従業員には最低賃金しか払っていなかった。そして、本番行為を強要する客を黙認していた。

美咲は、店長の悪事に気づき、良心の呵責に耐えられなくなった。

「こんなの、間違っている！私は、もうこんな仕事はできません！」

美咲は店長に訴えた。

店長は、冷たい目で美咲を見下ろした。

「辞める？いいだろう。だが、お前は、もう元の生活には戻れないぞ。お前の過去は、永遠にお前を追いかけるだろう」

店長の言葉は、美咲の心を深く抉った。確かに、自分は、もう普通の主婦には戻れないのかもしれない。

しかし、それでも、美咲は決意した。奈落の底から這い上がり、自分の尊厳を取り戻すために。

美咲は、風俗店を辞め、弁護士に相談した。そして、店長の悪事を告発した。

店長の悪事は、明るみになり、店は摘発された。美咲は、裁判で証言台に立ち、全てを語った。

裁判の結果、店長は逮捕され、美咲は、慰謝料を受け取ることができた。

美咲は、慰謝料を元手に、小さなカフェを開いた。そこで、美味しいコーヒーを淹れ、笑顔で客を迎えた。

過去の傷は、簡単には癒えなかった。しかし、美咲は、前を向いて生きていくことを決めた。

奈落の入り口に足を踏み入れてしまったとしても、決して希望を捨ててはいけない。

そう、美咲は信じている。

そして、いつか、自分の過去を誇れるように、強く生きていこうと誓った。