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春の陽射しが、まだ冷たさを残す空気を通して、桜並木をピンクに染めていた。れむは、その桜並木を、いつも通りの優雅さで歩いていた。白いブレザーに、上品なスカート。肩には、高級ブランドのバッグが掛けられている。彼女は、この街で最も裕福な財閥、一条家の令嬢、一条れむ。翌春から憧れのお嬢様大学に通う、まさに絵に描いたようなお嬢様だった。

穢れを知らない、という言葉が、彼女にぴったり当てはまる。温室育ちの蘭のように、世間の荒波を知らぬまま、金銭と愛情に囲まれて育ってきた。苦労を知らない彼女の生活は、まるで現実離れしたお伽話のようだった。そんな彼女の世界が、ある日、突然、音を立てて崩れ落ちた。

それは、いつものように学校から帰る途中だった。いつものように、専属運転手の運転する車ではなく、一人で歩いている時だった。人通りの少ない路地裏に差し掛かった時、背後から影が迫ってきた。振り返る間もなく、鋭い痛みがれむの腕を貫いた。意識が朦朧とする中、彼女は男の粗野な声を聞いた。

「お嬢様、ご無沙汰しております。中田です」

中田。その名前を聞いた時、れむの脳裏に、ぼんやりとした記憶が蘇った。父の運転手として屋敷に勤めていた男。几帳面で寡黙な、決して目立つ存在ではなかった。しかし、なぜか、その顔が、今、鮮明に蘇ってきた。

中田は、れむの父、一条慶一郎に勤務態度を咎められ、解雇されていた。その恨みを、れむにぶつけようとしていたのだ。

意識を失う前に、れむは彼の目をみた。そこには、復讐の炎が燃え盛っていた。憎悪に歪んだ顔は、今まで見たことのない、恐ろしいものだった。

目を覚ました時、れむは薄暗く、湿った場所にいた。臭くて、汚くて、まるで地獄のようだった。彼女は、ボロボロの毛布にくるまれ、小さな部屋に閉じ込められていた。

「おい、お嬢さん、起きたか？」

男の声がした。中田だ。彼は、れむを縛り上げていた縄を緩めた。しかし、決して優しくはない。むしろ、冷酷で、残忍な眼差しで、れむを見つめていた。

「慶一郎に、あの野郎に、とことん苦しませてやる」

中田は、恨みを晴らすように、れむに凄んだ。彼はもはや、かつての几帳面な運転手ではなかった。落ちぶれてチンピラとなり、ヤクザの傘下で暮らしていた。そして、今回の犯行は、そのヤクザへの貢物として、れむを差し出そうとしていたのだ。

数日間、中田はれむを監禁し続けた。食事は粗末で、言葉は罵詈雑言ばかりだった。金持ち育ちのれむにとって、それは耐え難い苦痛だった。しかし、それ以上に恐ろしかったのは、中田の狂気に満ちた目、そして、彼を操るヤクザの影だった。

ある夜、中田がヤクザの親分に電話をしているのを、れむはこっそり聞いてしまった。

「はい、親分…　予定通り、明日、品物を届けます…　ええ、一条家の令嬢です…　若いし、綺麗ですよ…」

親分と、中田の卑劣な取引が、れむの耳に突き刺さった。彼女は、絶望に打ちひしがれそうになったが、同時に、生き残ろうという強い意志が芽生えた。

彼女は、隙を見て、部屋に落ちていた鋭利な金属片を拾い上げた。そして、絶好の機会を伺っていた。

中田が、酒に酔って眠り込んだ時、れむは決死の覚悟で彼に襲いかかった。金属片を振り上げ、必死の力で中田を殴りつけた。

予想以上にあっさり中田は気絶し、れむは、束縛を解き、逃げ出した。

薄暗い路地裏を、必死に走り抜けるれむ。体は震え、足元はふらついた。しかし、彼女の心には、希望の光が灯っていた。

彼女は、偶然通りかかった警察官に助けを求めた。警察はすぐに動いてくれ、中田とヤクザの組織を逮捕した。

事件は大きく報道され、一条家の名声は傷ついた。しかし、れむは生き残った。温室で育まれた蘭は、嵐を乗り越え、たくましく咲こうとしていた。

事件後、れむは療養を続け、心の傷を癒していった。しかし、あの夜の恐怖は、決して消えることはなかっただろう。彼女は、かつての無垢な少女ではなくなった。だが、同時に、彼女は強くなった。世間の残酷さを知り、自分の弱さを知り、そして、生きることの尊さを知ったのだ。

桜の季節が巡ってくるたびに、れむはあの日のことを思い出すだろう。しかし、それは、彼女を弱らせるものではなく、強く生き続けるための力になるだろう。彼女は、かつての温室育ちの蘭ではなく、嵐を耐え抜いた、強靭な花として、人生を歩んでいくのだ。