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## 迷子の星屑

「また、あの店か」

恵美は、ため息をつきながら、いつも通る駅前のバーのネオンを見上げた。ガラス越しに見えるカウンターは、賑わっているようで、その喧騒すら今は煩わしく感じた。

「ガツガツした男が嫌いだったのよ、昔は」

そう、恵美は昔、そう言っていた。学生時代の彼氏や、結婚前の職場では、野心に燃える、ギラギラした男たちが多かった。彼らの目標達成への執念や、上昇志向の強さに、純粋に魅力を感じる時期もあった。しかし、いつしか、その「ガツガツ」が、自分を追い詰める力にも感じられるようになった。自分のペースで、穏やかに生きたい。そんな願いが強くなるにつれて、彼らのエネルギーは、自分には合わないもののように思えてきた。

そして、現在の夫、健一と出会った。彼は、恵美の求める「穏やかさ」そのものだった。誰の愚痴でも、じっくりと耳を傾ける傾聴力、そして、流行をさりげなく取り入れた、洗練されたファッションセンス。何よりも、恵美を傷つけない、優しい言葉遣いが、恵美の心を掴んだ。

「この人となら、穏やかで、満たされた人生を送れる」

そう確信して、恵美は健一との結婚を決めた。結婚生活は、期待通り、いや、期待以上に穏やかだった。健一は、恵美の気持ちを常に最優先し、彼女の望むものを、彼女が言葉にする前に察してくれるような、そんな温かい夫だった。

しかし、月日が流れるにつれて、恵美の心に、小さな、しかし、無視できない「イライラ」が芽生え始めた。それは、健一の「頼りなさ」だった。

「優しすぎる」と言えば、それはそれで彼らしいと理解できる。しかし、時として、その優しさは、決断力のなさ、あるいは、物事を深く追求しない態度として現れることがあった。仕事で昇進のチャンスがあっても、「まあ、今のままでもいいかな」と流してしまう。重要な家族のイベントでも、「どちらでもいいよ」と、恵美の意見に委ねてしまう。

「私が決めないと、何も進まないの？」

そんな思いが、日増しに募っていった。健一の穏やかさは、時として、恵美にとって、頼りなさに変換されるようになっていた。彼女は、健一の優しさの裏に隠された、彼自身の「芯」のようなものが見えないことに、寂しさを感じていた。

「私、ガツガツした男が嫌いだって言ってたのにね」

恵美は、自分自身の変化に戸惑った。かつて、忌み嫌っていたはずの「ガツガツ」したエネルギーが、今では、夫に少しだけ、欲しかったものに思える。それは、決して、夫を否定するものではなかった。ただ、もっと、力強く、前へ進む彼を見てみたかった、という、恵美自身の、叶わぬ願いなのかもしれなかった。

「あー、もう、ダメだ」

その夜、仕事で少し疲れていた恵美は、健一に「一人で飲みに行ってくるね」と告げた。健一は「うん、気をつけてね」と、いつものように穏やかに答えた。その言葉に、恵美は、また少し、胸の奥がチクリとした。

賑わうバーのドアを開けると、心地よい音楽と、人々の楽しそうな声が飛び込んできた。カウンターの端に席を取り、グラスに注がれたワインをゆっくりと口に運ぶ。

「やっぱり、一人飲みは落ち着くな」

誰の顔色も伺う必要がない。自分のペースで、好きなだけ飲める。それは、ある意味、解放感でもあった。しかし、その解放感の奥底には、やはり、日頃の「うっぷん」が、静かに渦巻いていた。

「最近、なんか、私ばっかり、色々決めてる気がするんだよな」

隣に座っていた男性が、ふと、恵美に話しかけてきた。彼は、恵美よりも少し年上に見えた。落ち着いた、それでいて、どこか人を惹きつけるような雰囲気を持っていた。

「え、あ、はい」

恵美は、突然のことに少し戸惑った。しかし、彼の穏やかな眼差しに、警戒心はすぐに解けた。

「奥さん、一人で飲みに来るんですか？」

「ええ、まあ、ちょっと…」

「わかりますよ。たまには、そういう時間も必要ですよね」

彼は、恵美の言葉を、否定も肯定もせず、ただ、静かに受け止めてくれた。その、押し付けがましくない、包容力に、恵美は、再び、心地よさを感じた。

「私、結構年上の旦那さんがいるんですけどね」

恵美は、堰を切ったように、ぽつりぽつりと話し始めた。夫の優しさ、そして、時折感じる物足りなさ。自分の気持ちを、誰かに聞いてもらいたい、という、抑えきれない衝動が、ワインの力も手伝って、溢れ出した。

彼は、ただ、静かに聞いてくれた。相槌を打つでもなく、アドバイスをするでもなく、ただ、恵美の言葉を、その身で受け止めているかのようだった。その存在が、恵美の心に、温かい安心感を与えた。

「なんだか、孤独を感じちゃって」

絞り出すように呟いた恵美の目から、いつの間にか、涙が零れ落ちていた。

「大丈夫ですよ」

彼は、そっと、恵美の肩に手を置いた。その手は、温かく、そして、力強かった。

「奥さんのこと、ちゃんと見てくれてる人も、きっといますよ」

その言葉は、恵美にとって、まるで、暗闇に差し込んだ一筋の光のように感じられた。夫への不満や、日頃の寂しさが、一瞬にして、融けていくような感覚だった。

「ありがとうございます」

恵美は、涙を拭いながら、微笑んだ。彼の言葉が、どれほど恵美の心を救ってくれたか、言葉では言い表せなかった。

「そろそろ、帰らないと」

恵美は、時計を見て、立ち上がった。

「そうですね。私も、そろそろ」

彼も、一緒に立ち上がった。

「あの…もし、よろしければ、もう少し、お話しませんか？」

恵美は、自分でも驚くほど、大胆な言葉を口にしていた。彼の、包容力と、どこか寂しさを帯びた眼差しが、恵美の心を、抗いがたい力で引きつけた。

「ええ、喜んで」

彼は、微笑んで、恵美の手を取った。その瞬間、恵美の心に、これまで感じたことのない、熱いものが駆け巡った。

「うち、近いんです」

恵美は、彼の顔を見ながら、囁いた。彼の指先が、恵美の頬を優しく撫でた。

「もう、離れたくない」

恵美の心は、そう叫んでいた。夫への、頼りなさへの、寂しさへの、あらゆる感情が、この一瞬に凝縮されたかのようだった。

「あの…」

恵美は、言葉に詰まった。

「大丈夫ですよ」

彼は、恵美の戸惑いを察し、優しく微笑んだ。

「このまま、うちに…」

恵美の言葉は、途切れた。彼の腕が、優しく恵美の腰に回された。

「わかってるよ」

彼の言葉は、甘く、そして、切なかった。

「でも、奥さんの旦那さん、心配するんじゃないかな？」

彼の言葉に、恵美は、一瞬、我に返りそうになった。しかし、この高揚感と、寂しさを埋めてくれるような、彼の手の温かさを、手放したくはなかった。

「大丈夫…たぶん」

恵美は、弱々しく答えた。

「もう、どうにでもなれ」

そんな、投げやりな気持ちが、恵美の心を支配していた。

家路を急ぐ彼女の足取りは、重かった。しかし、その重さとは裏腹に、心は、奇妙な高揚感に包まれていた。

「寂しかったんだな、私」

恵美は、自分自身の心の声に、静かに耳を澄ませた。夫の優しさは、確かに、温かかった。しかし、それは、時として、恵美を、孤独な世界に置き去りにしてしまうような、そんな、危うさを孕んでいた。

「もう、あの頃のように、ガツガツした男は、もう、いいって思ってたのに」

彼女は、夜空に浮かぶ、ぼんやりとした月を見上げた。その月が、まるで、迷子になった自分の心のように、頼りなく、そして、儚く見えた。

「でも、あの人、私を、ちゃんと見てくれた…」

バーで出会った、年上の男性。彼の、包容力と、どこか切なさを帯びた眼差し。あの、温かい手。恵美の心は、その記憶に、強く惹かれていた。

「もう、どうにでもなれ」

再び、そんな声が、恵美の心に響いた。夫への、物足りなさへの、そして、何よりも、自分自身の、満たされない心への、諦めに似た、しかし、どこか解放感のある、そんな声だった。

家に着き、ドアを開ける。夫の健一は、リビングで、恵美の帰りを待っていた。

「おかえり」

健一は、いつものように、穏やかに微笑んだ。その笑顔に、恵美の心は、複雑な感情で揺れ動いた。

「ただいま」

恵美は、いつものように、笑顔で答えた。しかし、その笑顔の裏で、彼女の心は、静かに、しかし、確実に、変わり始めていた。

「ごめんね、遅くなっちゃって」

「ううん、大丈夫だよ」

健一は、恵美の隣に座り、優しく彼女の肩に手を置いた。その手は、温かく、そして、穏やかだった。しかし、恵美の心に、あのバーで触れた、もう一つの手の感触が、鮮やかに蘇っていた。

「私、今日ね、バーで…」

恵美は、言葉を続けようとした。しかし、その言葉が、健一の心を傷つけるのではないか、という思いが、彼女の口を塞いだ。

「どうしたの？ 顔色、少し悪いけど」

健一の、心配そうな声が、恵美の耳に届いた。

「ううん、なんでもない」

恵美は、そう言って、健一の腕に、そっと寄りかかった。その腕は、確かに、優しかった。しかし、恵美の心は、もう、あの、バーで出会った、もう一人の男の、温かさを求めていた。

「寂しいんだな、私」

恵美は、心の中で、静かに呟いた。夫の優しさという名の、見えない壁に、彼女の心は、閉ざされかけていた。そして、その閉ざされた扉の向こう側で、誰かの、熱い視線が、彼女を捉えていた。