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## 居酒屋「灯火」の夜

　 neon の光が濡れたアスファルトに滲む。梅雨時特有の湿った空気が、東京の夜を重く、しかしどこか甘く包み込んでいた。あずさは、ヒールをカツカツと響かせながら、いつもの居酒屋「灯火」へ向かっていた。夫の健一は、今日も今日とて「明日の会議資料、これでいいか？」と、週末の予定をそっちのけで仕事の話ばかり。それがもう、うんざりするほど繰り返される。

「あー、もう、嫌になっちゃう！」

　 独り言が、夜の静寂に吸い込まれていく。健一の「ワガママ」というには、あまりにも身勝手な振る舞いに、あずさの心はすり減っていた。倹約倹約と口うるさく言いながら、自分は外で飲むことには寛容。週末も「疲れているから」と、一方的に予定をキャンセルされる。まるで、自分が健一の生活を支えるための道具にでもなったような気分だった。

「灯火」の暖簾をくぐると、いつものカウンター席に滑り込む。マスターは寡黙で、しかし常連客の好みはしっかりと把握している。あずさの席に、何も言わずに熱燗と枝豆が運ばれてくる。

「マスター、いつもありがとう」

　 ほっと一息、温かい日本酒が喉を潤す。あずさは、健一の鎖から一時的に解放されたこの時間が、何よりも大切だった。今日は、ちょっとだけ贅沢に、刺身盛り合わせも頼もうか。そんな、普段はためらってしまうような「無駄遣い」も、今日は許される気がした。

　 しばらくすると、隣の席に誰かが座った。見ると、小柄で可愛らしい雰囲気の女性だった。彼女も一人で来ていたようで、カウンターの端に遠慮がちに座る。あずさは、ちらりと視線を送る。彼女も、少し疲れたような、でもどこか希望を求めているような、そんな眼差しをしていた。

　 その時、マスターが両隣の席を指差した。

「すみません、ちょっと相席お願いしてもいいですか？ 他にお席がなくて…」

　 あずさは、心の中で「えっ？」と声を上げた。一人で静かに飲みたいと思っていたのに。しかも、隣の席の女性と一緒なんて。しかし、マスターの真剣な顔を見て、断ることもできず、小さく頷いた。隣の女性も、戸惑いつつも頷いている。

「はじめまして。あずさです」

　 あずさは、ぎこちなく微笑みかけた。

「ゆあです。よろしくお願いします」

　 ゆあ、という名前。可愛らしい響きだった。

「あずささんは、よく来られるんですか？」

　 ゆあが、緊張した面持ちで話しかけてきた。

「ええ、まあ。一人で静かに飲みたい時に。ゆあさんは？」

「私も、今日初めてなんです。なんだか、色々あって…」

　 ゆあは、言葉を濁したが、その瞳には、あずさと同じような疲労と、それでも何かを求めているような輝きがあった。

　 健一の束縛。倹約。それらは、あずさの日常を灰色に染めていた。ゆあは、どんな「色々」を抱えているのだろうか。

「私も、夫のことでちょっと…」

　 あずさは、衝動的に口にしてしまった。普段なら、初対面の人にこんな話はしない。でも、なぜかゆあになら話せる気がした。

「夫の健一が、とにかく自分のことばかりで。私の気持ちなんて、全然考えてくれないんです。週末も、いつも仕事だって言って、結局は友達と飲みに行ったりして…」

　 ぽつりぽつりと、溜まっていた言葉が溢れ出す。健一の理不尽さ、自分の無力感。話しているうちに、胸の奥が熱くなって、涙が滲んできた。

「…ごめんなさい、なんか、泣いちゃって」

　 あずさは、慌ててハンカチで目元を拭った。

　 ゆあは、何も言わずに、ただじっとあずさの話を聞いていた。そして、あずさが話し終えると、そっと手に触れた。

「わかります。私も、夫は節約、節約って言うんですけど、自分は美味しいもの食べに行ったり、欲しいもの買ったりしてるんです。私に『我慢しろ』って言うくせに…」

　 ゆあもまた、夫の身勝手さに疲弊していた。倹約生活は、あずさとはまた違う種類の苦しさだった。欲しいものを我慢する、行きたい場所を諦める。そんな日々の繰り返し。

「でも、今日は、どうしてもあのバッグが欲しくて…」

　 ゆあは、はにかみながら言った。

「え？ バッグ？」

「はい。ずーっと欲しかったんですけど、我慢してたんです。でも、もう無理だなって思って。ちょっとだけ、自分にご褒美あげようと思って」

　 その言葉に、あずさは胸を打たれた。自分も、何かを「無駄遣い」したかった。健一のせいで、自分のための贅沢なんて、すっかり忘れてしまっていた。

「私も、今日はちょっと…」

　 あずさは、メニューを手に取った。普段なら、枝豆と熱燗で十分だった。でも、今日は違う。

「マスター、刺身の盛り合わせと、だし巻き卵、それから…あと、日本酒の二合ください」

　 注文を終えたあずさは、ゆあに向かって微笑んだ。

「なんだか、今日ここに来てよかった」

「私もです」

　 ゆあも、安心したような笑顔を見せた。

　 賑やかな店内に、二人の静かな会話が溶け込んでいく。お酒が進むにつれて、二人の距離も縮まっていった。夫への愚痴、日常の不満。普段は誰にも話せないようなことも、自然と口にしてしまう。

「…なんだか、私、夫に『女』として見られてない気がするんですよね」

　 あずさは、ふとそう思った。健一は、あずさを「家政婦」か「秘書」のように扱っている。たまに、スキンシップがあっても、それは義務のように感じられた。

「わかります…私も、最近は、なんか…」

　 ゆあも、同じような悩みを抱えているようだった。

　 突然、あずさのスマホが震えた。健一からだった。

「…やっぱり」

　 あずさは、ため息をついて、スマホを無視した。もう、健一に振り回されるのは嫌だった。

　 その時、ゆあが、あずさの腕をそっと掴んだ。

「あずささん、私…なんだか、ドキドキしちゃって…」

　 ゆあの顔が、ほんのりと赤く染まっている。その仕草、その表情。あずさは、その瞳の奥に、自分と同じような、隠しきれない「欲求」を感じた。

　 夫への不満。束縛からの解放。そして、久しぶりに感じる「女性」としての自分。

　 居酒屋「灯火」。それは、普段の日常から切り離された、密室のような空間だった。温かいお酒、美味しい料理、そして、同じような悩みを抱える者同士の共感。それは、油断を誘うには十分すぎる要素だった。

　 あずさは、ゆあの手にそっと自分の手を重ねた。ゆあは、驚いたようにあずさを見たが、すぐにその手を握り返してきた。

　 彼女の指先は、あたたかかった。

　 夫への怒りも、日常の重圧も、この温かい密室の中では、遠いもののように感じられた。むしろ、そこにあるのは、自分自身の、抑えきれない「欲求」だけだった。

　 誰かに、求められたい。女性として、見られたい。

　 倹約生活に疲れたゆあは、禁断の「贅沢」に手を伸ばした。束縛から逃れたあずさは、心の解放を求めていた。

　 二人の視線が絡み合う。そこには、言葉にならない、秘めたる「衝動」が渦巻いていた。

　 居酒屋「灯火」の片隅で、二人の夜は、静かに、しかし確かに、熱を帯び始めていた。