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## 郡上の乙女

夏の盛りを過ぎたとはいえ、まだまだ日差しは容赦なく肌を刺す。郡上八幡の古い町並みを歩けば、木漏れ日が石畳にまだら模様を描き、ゆらゆらと揺れる川面に反射してまぶしい。俺、佐藤健太は、東京から来たフリーランスのライターだ。取材で訪れたこの町で、俺は「夢」と呼んでも差し支えないような、とてつもない「原風景」に出会ってしまった。

それは、町の中心部から少し離れた、古びた商店街の一角にあった。店の名は「ひだまり雑貨店」。その名の通り、暖かな陽射しが差し込むような、どこか懐かしい雰囲気の店だった。そこで俺は、彼女に出会った。

木綿の浴衣のような素朴なワンピースに、顔にはほとんど化粧っ気がない。細い三つ編みは少し乱れているけれど、それがむしろ彼女の純粋さを際立たせていた。年齢は見たところ二十歳そこそこだろうか。彼女の名前は、古川陽菜。この雑貨店の店番をしていた。

俺は、この町の特産品や文化について取材するために来たのだが、最初に着いた彼女の店で、俺の取材対象は一瞬にして陽菜に変わった。彼女の飾らない笑顔、そしてどこか世間離れした雰囲気に、俺はあっという間に心を奪われてしまったのだ。

「あの、何かお探しですか？」

陽菜の声は、まるで風に揺れる鈴のようだった。俺は、手に持っていたカメラを向けながら、少しぎこちなく答えた。

「ええ、この町の何か面白いものはないかな、と思って。」

陽菜は、俺の言葉に小さく首を傾げた。「面白いもの、ですか？この町は、昔から変わらない風景がほとんどですけど。」

その言葉に、俺の胸は高鳴った。まさにそれだ、と。都会では失われつつある「変わらないもの」こそが、俺が求めていたものだった。彼女自身が、その「変わらないもの」を体現しているように思えた。

「そうなんですよね。だからこそ、いいなと思って。」

俺はそう言って、店内の品々を眺めた。手作りの民芸品、古い時代のポスター、そして何故か、一昔前のアイドルのブロマイド。どれもが、この町の長い歴史と、そして陽菜のような素朴な人々によって大切にされてきたのだろう。

取材は順調に進んだ。陽菜は、この町の歴史や文化について、とても丁寧に、しかし飾り気なく話してくれた。彼女が語る言葉には、流行や世間の評価への関心がほとんど見受けられなかった。むしろ、服に多くのお金をかけることに対して、「私がオシャレな服を着たって、誰も興味ないと思いますよ」と、少し戸惑ったように言った。その無垢な言葉に、俺はたまらなく可愛いと思った。自分の価値に全く気付いていない、その純粋さが、何よりも魅力的に映った。

郡上八幡は、東京のような喧騒とは無縁の世界だ。川のせせらぎと、人々の穏やかな話し声だけが響いている。陽菜もまた、そんなこの町の空気に溶け込んでいた。

数日後、俺は東京へ帰る前に、もう一度陽菜に会いたくなった。取材のためというよりは、個人的な興味からだった。彼女が話していた「東京」への憧れを、少しでも現実に近づけさせてあげたいと思ったのだ。

「古川さん、あの、もしよかったらなんですけど、明日東京に行ってみませんか？日帰りでもいいですし、せっかくだから高いところから景色を見てみませんか？」

俺の突然の誘いに、陽菜は目を丸くした。「東京？私なんかが、行っていいんですか？」

その戸惑いの表情さえも、俺には愛おしく映った。

翌日、俺たちは新幹線に乗り、東京へと向かった。陽菜は、初めて見る高層ビル群に目を輝かせ、「わあ、すごい！あれは、スカイツリーですか？」と、無邪気に質問を繰り返した。東京タワーや都庁など、いくつもの高層建築物を指差しては、「あれは、どれがお城ですか？」と、全く見当違いなことを言う。そのたびに、俺は心の中で「キュンキュン」と音を立てていた。彼女の知らない世界への純粋な好奇心と、少しずれた認識が、俺の心をくすぐったのだ。

高層ビルの展望台から見た東京の街並みは、まさに宝石箱をひっくり返したかのようだった。無数の光が輝き、果てしなく広がっている。

「すごいですね…。」陽菜は、ただただ感嘆の声を漏らしていた。

「綺麗でしょう？」

「はい。でも、なんだか、私には遠い世界みたいです。」

その言葉に、俺は少し寂しくなった。彼女のようなダイヤの原石が、こんなにも無垢なままでいることへの寂しさなのかもしれない。

帰り際、俺は陽菜に、東京での一日のお礼として、ささやかな謝礼を渡そうと思った。しかし、ただ「お礼です」と言うだけでは、彼女は受け取らないだろう。そこで、俺は少しだけ「都会的な」提案をしてみた。

「古川さん、今日のギャラです。東京までの交通費と、あと、まあ、お話し相手になってくれたお礼ということで。」

俺は、いくつかの紙幣を彼女の手に渡そうとした。陽菜は、俺の意図を察したのか、それとも単に金額を理解していないのか、目をぱちくりさせていた。

「あの、これ、いくらですか？」

俺は、素早く紙幣に書かれた数字を読み上げた。陽菜の顔に、驚きと困惑の色が混じり合う。

「えっ、こんなに…？でも、私、郡上では時給…」

彼女は、郡上での最低賃金の話をし始めた。そして、俺が渡した金額が、彼女の感覚では到底理解できないほど高額であることを伝えようとした。しかし、俺は彼女の言葉を遮るように、さらに具体的な金額を提示した。

「今日の分は、時給に換算すると…そうですね、例えば、郡上の最低賃金に、少し上乗せして、例えば時給907円くらいでどうかな？」

俺がそう言うと、陽菜は文字通り目を丸くした。そして、少しの間、真剣な顔で数字を計算するような仕草をした後、満面の笑顔で言った。

「えっ！時給907円！？それは、すごい！ありがとうございます！」

彼女のその表情を見て、俺は胸が締め付けられるような感覚になった。おそらく、彼女は「愛人契約」という意味も、ましてや俺が提示した「時給換算」の裏にある意図も、全く理解していないのだろう。ただ純粋に、自分が受け取る金額が、想像以上に大きいことを喜び、驚いているだけなのだ。

時給696円の最低賃金で日銭を稼ぐ彼女にとって、907円という数字は、確かに驚くべきものだったのだろう。211円の上乗せ。それは、彼女の世界では革命的な出来事だったに違いない。

新幹線の中で、陽菜は窓の外を眺めながら、何かを思案しているようだった。俺は、彼女の横顔を見つめながら、改めて思った。郡上には、まだこんなにも純粋で、世界を知らない「ダイヤの原石」がゴロゴロしているのだと。

都会の喧騒で、様々な情報を貪欲に吸収し、時には虚栄心を満たすために消費を繰り返す私たち。一方で、彼女のような人々は、生まれ育った土地の空気を吸い込み、変わらない日常の中で、自分たちの価値を見出している。

地方に住みたいと思う人の気持ちが、今、ひしひしと伝わってきた。それは、単に物価が安いから、自然が多いから、という理由だけではない。そこには、都会では失われてしまった、純粋な「夢」や「原風景」が、息づいているのだ。そして、その「原風景」の中心に、郡上の乙女、陽菜のような存在があることを思うと、俺は、いつかこの町に戻ってきたいと、強く願うようになっていた。彼女の無垢な笑顔に、また会える日を楽しみにしながら。