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## 湯けむりの誘惑

それは、ごくありふれた梅雨の日の午後だった。窓の外では、重たい雲が空を覆い、時折、アスファルトを濡らす雨音が、部屋の静寂を破っていた。綾香は、テーブルの上に広げられた旅行雑誌に目を落としていた。次号の特集は「全国温泉地巡り」。ありきたりな紹介記事の中に、ふと、異彩を放つ広告が目に飛び込んできた。

「温泉レポート体験モニター募集！あなたの温泉体験を、全国に届けませんか？」

読者参加型企画。モニターには謝礼もあり、さらに、選ばれたレポートは雑誌に掲載されるという。専業主婦として、平凡な毎日を送っていた綾香にとって、それはまるで、日常に差し込まれた一筋の光のように見えた。子供たちは学校へ、夫の健一は会社へ。静まり返った家で、綾香の心は、ほんの少しだけ、日常からの逃避を求めていたのかもしれない。

「温泉か…最近、全然行ってないな」

ふと、数年前、健一と訪れた静かな露天風呂を思い出した。湯けむりの中に揺れる木々の緑、肌を撫でる心地よい湯の温もり。あの頃の、二人だけの親密な時間が、鮮やかに蘇る。

軽い気持ちで、綾香は応募用紙に記入し始めた。名前、年齢、連絡先。そして、温泉への想いを綴る欄には、つらつらと、日頃のストレスや、非日常への憧れを書き連ねた。

数週間後、一本の電話がかかってきた。旅行雑誌「旅の彩り」の編集部からだった。

「綾香様でしょうか？この度、弊誌の温泉レポート体験モニターにご当選されました！」

驚きと喜びが、綾香の胸を駆け巡った。まさか、本当に選ばれるなんて。

「ありがとうございます！すごく嬉しいです！」

電話口の担当者は、明るく快活な声の男性だった。彼の名前は、佐藤と名乗った。

「ありがとうございます！綾香様には、今月下旬に開催される、群馬県の秘湯ツアーにご参加いただきます。詳しい資料は、近日中に郵送させていただきますね。」

その日の夜、健一にその話をすると、彼は意外にも協力的だった。

「へえ、温泉レポートか。面白そうじゃないか。たまには、気分転換になるだろう。子供たちのことも、心配ないだろうし。」

健一は、仕事が忙しく、綾香との会話も減りつつあった。彼女の些細な変化にも、あまり関心を示さなくなっていた。そんな健一の「許可」は、綾香にとって、どこか寂しさを感じさせるものだった。

ツアー当日、綾香は指定された集合場所へ向かった。そこには、彼女と同じように、期待に胸を膨らませた女性たちが数人集まっていた。皆、彼女と同じくらいの年齢で、どこか華やかさを漂わせている。

「皆さん、こんにちは！本日は、温泉レポート体験ツアーにご参加いただき、ありがとうございます！私は、このツアーの担当をしております、佐藤と申します！」

現れたのは、電話で話した通りの、爽やかな笑顔の男性だった。見た目は30代半ばくらいだろうか。背が高く、すらりとした体型。そして、何よりも、その洗練された雰囲気と、人を惹きつけるような親しみやすさに、綾香は一瞬で心を奪われた。

「今日のツアーは、皆様に、最新の温泉宿を体験していただき、その魅力をレポートしていただくことが目的です。しかし、それだけではありません。皆様には、このツアーを通して、日頃の疲れを癒し、特別な時間を過ごしていただきたいと思っております！」

佐藤の言葉に、参加者たちから感嘆の声が漏れた。

「そして、今日のツアーには、もう一つ、特別な企画がございます。それは…」

佐藤は、意味ありげに言葉を区切り、参加者たちに微笑みかけた。

「皆様と、私を含めた数名の男性スタッフで、親睦を深めていただく、交流会です！」

「交流会？」

綾香は、思わず隣の女性に囁いた。彼女も、少し戸惑ったような顔をしている。

「まあ、なんていうか…堅苦しいものではありませんので、ご安心ください。美味しいお酒と、楽しいお話で、皆様をおもてなさせていただきます！」

佐藤の軽快な説明に、次第に、参加者たちの不安は薄れていった。確かに、旅行雑誌の企画として、読者との交流は、ある意味、自然なことなのかもしれない。

最初の目的地は、山奥にひっそりと佇む、趣のある温泉宿だった。古民家を改装したという宿は、趣があり、何よりも、湯気が立ち込める露天風呂が、参加者たちの期待を掻き立てた。

「では、皆様、ゆっくりと温泉をお楽しみください。レポートは、自由な形式で構いません。感じたままを、言葉にしていただければ。」

佐藤の言葉に、綾香は、用意された浴衣を身に纏い、露天風呂へと向かった。湯は、肌に吸い付くように滑らかで、体の芯から温まる心地よさがあった。湯けむりの向こうに、ぼんやりと見える山の緑が、幻想的な雰囲気を醸し出している。

「やっぱり、温泉っていいわね…」

綾香は、一人、湯に浸かりながら、そんなことを考えていた。夫との関係も、子供たちの成長と共に、どこか、色褪せてしまったような気がしていた。日々の家事や育児に追われ、自分自身を見失いかけていたのかもしれない。

湯から上がると、待っていたのは、個室での食事だった。テーブルには、地元の食材を使った、彩り豊かな料理が並んでいる。そして、参加者たちと、佐藤を含めた数名の男性スタッフが、それぞれの席に座っていた。

「さあ、皆さん、遠慮なく召し上がってください！」

佐藤の号令と共に、会は和やかな雰囲気で始まった。参加者たちは、最初こそ少し遠慮がちだったが、佐藤の巧みな話術に、次第に打ち解けていった。綾香も、普段はあまり話さないような、自身の趣味や、日常の出来事を、楽しそうに語っていた。

「綾香さんは、専業主婦なんですよね？毎日、大変でしょう？」

隣に座っていた、三十代後半くらいの男性が、綾香に話しかけてきた。彼は、このツアーを企画した旅行会社の社員だという。

「まあ、そうですね。でも、子供たちが成長して、手が離れてくると、少し寂しいというか、自分の時間ができたような、不思議な感覚になります。」

「なるほど。でも、綾香さんのような、素敵な方なら、きっと、色々な世界が待っていると思いますよ。」

男性は、綾香の目を見つめながら、そう言った。その言葉に、綾香の胸が、ほんの少し、ドキリとした。

酒が進むにつれて、会話は次第に、プライベートな領域へと移っていった。女性たちは、夫への不満や、満たされない日常について、ぽつりぽつりと語り始めた。そして、男性スタッフたちは、そんな女性たちの言葉に、共感するように、熱心に耳を傾けていた。

「うちの夫なんて、最近、全然構ってくれないのよ。仕事が全てっていう感じで。」

「私もよ。週末も、いつもゴルフか何かで出かけていってしまうし。」

女性たちの愚痴に、男性たちは、優しく頷き、時には、慰めるような言葉をかけていた。

「でも、綾香さんは、旦那さんとの関係、うまくいってますか？」

先ほどの男性が、再び綾香に問いかけた。

「うーん…まあ、普通、かな。お互い、忙しいし。」

綾香は、正直に答えた。健一との関係は、決して悪くはない。ただ、かつてのような、情熱的な愛情や、深い繋がりは、薄れてしまっていた。

「そうですよね。でも、人生って、一度きりじゃないですか。もっと、自分を大切にして、楽しまなくちゃ。」

男性の言葉は、綾香の心の奥底に、静かに響いた。

その夜、ツアーは、更なる展開を見せた。佐藤が、皆を、宿から少し離れた、貸切の露天風呂へと誘ったのだ。

「ここは、私たちだけの、特別な空間です。日頃の疲れを、全て洗い流して、リフレッシュしてください。」

そこにいたのは、綾香たち女性と、佐藤を含めた男性スタッフだけだった。浴衣を脱ぎ捨て、湯に浸かると、そこには、先ほどまでの賑やかな雰囲気とは、全く違う、静かで、そして、どこか挑発的な空気が流れていた。

湯けむりが、女性たちの肌を滑らかに撫で、その曲線美を際立たせる。男性たちの視線が、熱を帯びて、女性たちの身体に絡みつく。綾香は、自分が、この空間に、ふさわしくない人間なのではないかと、一瞬、思った。しかし、周囲の女性たちが、男性たちと親密に話している姿を見ると、自然と、その空気に呑み込まれていくのを感じた。

「綾香さん、綺麗ですね。」

誰かの声が、湯けむりの向こうから聞こえてきた。綾香は、顔を上げ、その声の主を探した。それは、先ほどから、彼女に話しかけてきていた、旅行会社の男性だった。

彼は、綾香の隣に座り、ゆっくりと、彼女の肩に手を置いた。その温かい感触に、綾香の体は、微かに震えた。

「私、こんなこと…初めてだから。」

綾香は、掠れた声で言った。

「大丈夫。ゆっくりでいいんだよ。」

男性は、優しく微笑み、綾香の髪を撫でた。その指先が、肌に触れるたびに、綾香の心臓は、激しく高鳴った。

この時、綾香は、まだ知らなかった。この「温泉レポート体験ツアー」が、単なる企画ではなく、ある種の「仕掛け」であることを。そして、彼女自身が、その「仕掛け」の、甘く、危険な渦に、足を踏み入れてしまったことを。

旅行雑誌の広告は、綾香にとって、日常からの逃避のきっかけとなった。しかし、それは同時に、彼女が、これまで知らなかった、もう一つの世界への扉を開く、甘く、そして、危険な誘惑でもあったのだ。湯けむりの向こうに広がる、禁断の世界で、綾香の「体験」は、まだ始まったばかりだった。