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## 亜細亜の楽園で、心を溶かす香り

それは、梅雨明け前の、蒸し暑さと戦うような午後だった。都会の片隅にある、雑居ビルの二階。狭い一室で、高橋健太は虚ろな目でモニターを眺めていた。彼の指先は、無数の「パツキン物」のサムネイルの間を滑らかに移動する。もう、何年も変わらないルーティンだった。異国の、どこか遠い国の、ブロンドの髪の女性たち。彼女たちの作り出された笑顔と、ありきたりなセリフに、健太は漠然とした満足感を得ていた。それは現実から逃避するための、彼だけの秘密の遊園地だった。

「…もう、飽きたな」

ふと、漏れた呟きは、埃っぽい部屋に虚しく響いた。モニターの光だけが、彼の顔を青白く照らしている。いつからだろうか。この虚無感に苛まれるようになったのは。

そんな時、SNSのタイムラインに、見慣れない広告が流れてきた。そこには、鮮やかな緑色の葉っぱと、キラキラと輝く太陽の光が写っていた。そして、なんとも惹きつけられるキャッチコピー。「パツキン物しか観ないって貴方！！喰わず嫌いは良くないです。極上タイ娘なんていかがですか？」

健太は鼻で笑った。タイ娘？パクチー？ナンプラー？なんだか想像もつかない世界観だ。彼の脳裏に浮かぶのは、どこかエキゾチックで、でも自分とは遠い存在のようなイメージ。しかし、その「喰わず嫌いは良くないです」という言葉が、妙に彼の胸に引っかかった。いつもの自分を変えたい。その漠然とした願望が、彼の行動を突き動かしたのかもしれない。

クリック。流れてきたのは、驚くほどシンプルなウェブサイトだった。タイの観光プロモーションサイトらしい。そこに映し出されていたのは、これまで見たこともないような、色彩豊かな風景。青い空、白い砂浜、そして、活気あふれる街並み。そして、何よりも彼の目を引いたのは、そこに写る人々の笑顔だった。特に、何人かの女性たち。太陽を浴びて健康的に焼けた肌、くりっとした黒い瞳。その、どこか少し幼さを残した、それでいて大人の色気も漂う表情に、健太は心を奪われた。

「…確かに、可愛いかも」

今まで、自分の好みを狭めていたことに気づかされる。ブロンドの髪に固執していた自分。それは、単なる無知だったのかもしれない。サイトには、タイの食文化についても触れられていた。「パクチー、ナンプラーも確かにちょっと癖はありますが、ハマっちゃうと、ヤバいですよね。」健太は、パクチーは一度食べたことがあったが、その独特な香りに敬遠していた記憶がある。しかし、「ハマっちゃうと、ヤバい」という言葉に、妙な期待感が生まれた。

そして、その下に続く一文。「一度食べたら病みつきなのは、タイ娘も同じじゃないですか？！」健太は思わず吹き出した。なんてストレートな表現だろう。しかし、その言葉は、彼の心を掻き立てるには十分だった。病みつき。一度ハマったら抜け出せない。それは、彼が求めていたものだったのかもしれない。

「流石は、アジア最後の楽園！タイ王国！！」

広告の文面は続く。タイへの憧憬のようなものが、ひしひしと伝わってくる。健太は、これまでの自分の人生を振り返った。単調な日々、変わり映えのない人間関係、そして、逃避の先にある虚無感。このままでは、何も変わらない。あの広告の言葉が、彼の背中を強く押した。

彼は、思わず旅行サイトを開いていた。バンコクへの航空券。ホテルの予約。あれよあれよという間に、彼はタイ行きを決めてしまっていた。

到着したバンコクは、想像以上にエネルギッシュな街だった。空港に降り立った瞬間、むわっと襲い来る熱気と、様々なスパイスの混ざった独特な香りに包まれた。それが、まさに「パクチー、ナンプラー」の香りなのかもしれないと、健太は思った。街中には、色とりどりのトゥクトゥクが行き交い、市場では活気あふれる呼び込みの声が響いている。

ホテルにチェックインし、早速街へと繰り出した。夕食は、ガイドブックに載っていた有名な屋台で。初めて食べるトムヤムクン。想像以上に辛いが、その中に潜む複雑な旨味と酸味。そして、やはり香るパクチー。最初は少し戸惑ったが、一口、また一口と口に運ぶうちに、その魅力に引き込まれていった。ナンプラーのコクも、確かに癖になる。これは、まさに「病みつき」になる味だと、健太は確信した。

街を歩けば、どこからともなくタイ語の賑やかな音楽が聞こえてくる。そして、すれ違う人々の、明るく屈託のない笑顔。その笑顔に、健太は、今まで見えていなかった世界があることに気づかされる。

ある夜、健太は一人でバーに入った。現地のビールを飲みながら、ぼんやりと店内を見渡す。すると、店の片隅で、数人のタイ人女性が楽しそうに話し込んでいるのが目に入った。その中の一人の女性に、健太は目が釘付けになった。彼女は、太陽を浴びて健康的に焼けた肌をしており、短く刈り込んだ黒髪が、その顔立ちを一層引き立てていた。少し色づいた唇と、いたずらっぽく微笑む瞳。それは、彼がこれまで見てきた「パツキン物」の女性たちとは全く異なる、しかし、それ以上に魅惑的な光を放っていた。

勇気を出して、健太は彼女に話しかけた。「あの…、写真、撮ってもいいですか？」

彼女は少し驚いた顔をしたが、すぐに屈託のない笑顔で頷いた。「どうぞ！」

彼女の名前は、リサといった。タイ語で「美しい」という意味だそうだ。リサは、健太の拙い英語と、指差し、そしてジェスチャーを交えた会話にも、辛抱強く付き合ってくれた。彼女は、タイの文化や、地元の人々の生活について、楽しそうに語ってくれた。そして、健太が「パツキン物」しか見なかったことを話すと、彼女は大きく笑った。

「ふふ、それはもったいない！タイにも、たくさんの素晴らしいものがたくさんあるよ！」

リサは、健太にタイの魅力を語り始めた。タイの寺院の美しさ、タイ古式マッサージの心地よさ、そして、何よりもタイの人々の温かさ。彼女の話を聞いているうちに、健太の心は、徐々に温かいもので満たされていくのを感じた。

数日後、健太はリサに誘われて、地元の人々が集まる賑やかな市場を訪れた。市場には、見たこともないような南国のフルーツや、色とりどりの雑貨、そして、食欲をそそる屋台料理が溢れている。リサは、健太にマンゴーの切り方を教えたり、辛いチリソースのかかった串焼きを勧めたりした。その一つ一つが、健太にとっては新鮮で、驚きに満ちていた。

「もっと色々食べなきゃ、損だよ！」

リサは、健太の肩をポンと叩いた。その笑顔は、太陽のように眩しく、健太の心を温かく照らした。

「…本当に、ありがとう」

帰り道、健太はリサにそう呟いた。リサは、優しく微笑んだ。

「まだ、私たちの楽園は始まったばかりだよ？」

その後も、健太はタイで過ごす時間を満喫した。ビーチでジェットスキーに乗ったり、象に乗ってジャングルを探検したり。そして、リサとの時間は、日に日に深まっていった。彼女の、飾らない笑顔。時折見せる、大人びた表情。そして、健太の心を優しく包み込むような温かさ。それは、彼がモニターの前で求めていたものとは全く違う、しかし、もっとずっと本質的な幸福だった。

タイを離れる日。空港で、健太はリサに別れを告げた。

「また、来る？」

リサが、少し寂しそうに健太を見つめる。

「うん。絶対に来るよ。君に、もっとタイの良さを教えてもらうためにね」

健太は、そう言って力強く頷いた。彼の心には、もう「パツキン物」の虚ろな影はない。あるのは、タイの熱気と、リサの笑顔、そして、心を満たす豊かな香りだった。

日本に帰国した後も、健太の日常は大きく変わった。相変わらず仕事は忙しいが、以前のような虚無感に襲われることは少なくなった。夜、一人でいる時も、モニターの前ではなく、タイで撮った写真を見返したり、タイ料理のレシピを調べたりするようになった。あのウェブサイトの言葉が、現実になったのだ。「喰わず嫌いは良くないです」。そして、「一度食べたら病みつき」。それは、タイ娘だけでなく、タイという国そのものにも当てはまる言葉だった。

次の夏。健太は、再びタイへの航空券を手配した。今度は、一人ではなく、少し勇気を出して、数人の友人を誘ってみようかとも考えていた。そして、あの「アジア最後の楽園」で、彼はまた、新しい発見と、心を溶かすような体験をするのだろう。彼の人生は、あの時、あの広告の言葉をクリックしたことから、大きく変わったのだ。亜細亜の楽園で、彼は本当の「病みつき」を見つけたのだから。