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関口晋助は、古びたマンションの窓から、夕暮れの街を眺めていた。一歳にも満たない娘、はるこ（こはなと呼んでいたが、最近は「はるこ」と呼ぶことが多くなった）の寝息が、隣の部屋からかすかに聞こえる。妻のまきとは、特に大きな喧嘩をすることもなく、穏やかな日々を過ごしていた。しかし、その穏やかさの裏には、深い静寂、そして満たされない空虚が潜んでいた。

晋助は、広告代理店で働く平凡なサラリーマンだった。仕事はそれなりに順調で、収入にも不満はない。しかし、毎日同じことの繰り返し、同じ顔ぶれ、同じ会話。会社での成功も、家庭での幸せも、どこか他人事のように感じていた。それが、最近、特に顕著になってきた。

転機は、共通の友人である篠原町子との再会だった。まきと町子は、大学時代からの親友。晋助は、町子の明るい性格と、独特のユーモアセンスに惹かれていた。久しぶりに会った町子は、以前より大人びて、魅力を増していた。その魅力は、晋助を、彼自身の日常とは全く異なる世界へと引きずり込み始めた。

町子と何度か会ううちに、晋助は自分がまきに対して、もはや愛情というよりも、惰性で繋がっているような気がした。居心地の良さ、安心感、そういうものは確かにあった。だが、それは愛とは違う、何か別の感情ではないだろうか。その疑問が、晋助の心を蝕んでいった。

ある夜、晋助はまきにある決意を伝えた。「町子が気になって…俺は、家を出てみる。」

まきは何とも言えない表情で晋助を見つめ、何も言わなかった。静かに頷くだけで、涙も見せなかった。その反応が、晋助の心に更に重くのしかかった。まるで、彼が既にどこか遠くへ行ってしまっているかのように。

行くあてもなく、晋助は共通の友人である前野馬場のアパートに転がり込んだ。馬場は、以前からまきを密かに想っていた。そのことを晋助は薄々感じていたが、今となっては、そんなことはどうでもよかった。

馬場の部屋は、雑然としていて、空気が淀んでいた。馬場は、晋助の登場に喜びを隠しきれず、酒を酌み交わしながら、まくし立てた。「なぜ出てきたんだ！？早く戻ってやれ！あんな女は、お前なんかよりよっぽど幸せになれるんだぞ！」

馬場の言葉は、晋助の心をさらに混乱させた。彼は、単に自分の気持ちを吐き出したいのではなく、マきの気持ちを利用して、自分の感情を代弁していただけなのだ。その自己中心的な態度に、晋助はうんざりした。居場所がない、居場所などどこにもないのだという絶望感に襲われた。

馬場の言葉を遮り、晋助は町子のアパートへと向かった。町子は、最近彼氏と別れそうだと話していた。しかし、アパートを訪れると、部屋からは楽しげな二人の笑い声が聞こえてきた。ドアをノックすると、町子は驚いた表情でドアを開けた。そして、その背後には、元彼と思われる男性の姿があった。二人は、仲睦まじく抱き合っていた。

晋助は何も言わず、踵を返した。背筋が凍るような、冷たさが全身を突き抜ける思いだった。町子への感情が、一気に冷めていくのを感じた。彼は、自分の逃避行が、単なる自己満足の幻想であったことを悟った。

夜の街を一人歩く晋助の足取りは重かった。彼は、自分の抱える問題から逃げ出そうとしたが、結局、何も解決していないどころか、状況をさらに悪化させてしまったことに気づいた。家に戻ろうか、それとも…　様々な思いが、彼の頭を駆け巡る。

晋助は、自分が本当に何を望んでいるのか、まだ分からなかった。ただ、一つだけ確かなことは、彼が今まで築き上げてきたものが、脆く、簡単に崩れてしまったという事実だけだった。そして、その事実を、彼はこれから長い時間をかけて、受け止めていかなければならないだろう。彼は、はるこの寝顔を思い浮かべながら、静かにマンションへと向かった。  夜空には、無数の星が輝いていたが、彼の心には、暗闇が広がっていた。