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■ 陽だまりの檻

「なんか…今日は、クラスに行きたくないな」

朝の空気は、いつもより重く感じた。カーテンの隙間から差し込む陽射しすら、部屋の埃をキラキラと舞い上げ、私の気分をさらに沈ませる。普段なら、友達とくだらない話で笑い合ったり、授業の課題に頭を悩ませたりするはずの教室。でも、今日はそんな場所へ足を踏み入れる気力が湧かなかった。

数日前から、漠然とした不安が胸を締め付けていた。些細なことがきっかけだったのかもしれない。些細な、でも私にとっては決して無視できない言葉や視線。それが積み重なり、まるで壁のように私の心を覆っていた。

「仕方ないか」

ため息をつき、制服のスカートを履き替える。学校へ行かないなんて、親に知られたらどんな顔をされるだろう。でも、今はそんなことよりも、この重苦しい気持ちから逃れたかった。

学校とは反対方向へ、ただひたすら歩き始めた。公園のベンチに座ってぼんやりしたり、普段は通らない路地を散策したり。そんなことをしているうちに、時間はゆっくりと流れていく。

ふと、視線を感じた。振り返ると、一人の男性がこちらを見ていた。中年男性で、穏やかな顔立ちをしている。少し疲れたような、でも優しい雰囲気を纏っていた。

「こんにちは。どうしたんだい、こんな時間に学校へ行かないで」

男性は、咎めるような口調ではなく、心配そうな表情で話しかけてきた。その声は、どこか耳に心地よかった。

「え、あ…」

戸惑って言葉に詰まる。まさか、学校をサボっているところを見られているなんて。

「大丈夫かい？何かあったなら、聞かせてごらん。俺は、君みたいな子たちの相談に乗るのを手伝っているんだ」

男性は、さらに穏やかな笑顔で続けた。その言葉に、ほんの少しだけ心が軽くなった気がした。

「相談…ですか？」

「そう。学校に行きたくない、とか、悩んでいるとか、そういう子たちの話を聞くんだ。もしよかったら、ちょっと話でもしないかい？」

男性は、手招きするように誘ってきた。断る理由も、特にはなかった。いや、むしろ、このまま一人でいるよりも、誰かに話を聞いてもらった方が良いのかもしれない。

「はい…」

彼の言葉に、私は素直に頷いた。

「そうか、ありがとう。じゃあ、うちで少し休んでいきなさい。お茶でも飲んで、ゆっくり話そう」

男性は、私の返事を待っていたかのように、嬉しそうに笑った。そして、私を促すように歩き出した。彼の後をついていく。彼の家は、駅の近くにある、少し古びたマンションの一室だった。

部屋に入ると、意外にも清潔で、居心地の良い空間が広がっていた。壁には色とりどりの本が並び、窓からは柔らかな日差しが差し込んでいる。

「どうぞ、楽にして。お茶を淹れるから」

男性は、そう言ってキッチンへと向かった。私は、ソファに腰掛け、期待と不安が入り混じった気持ちで待っていた。どんな話を聞いてもらえるのだろう。少しは、この重苦しい気持ちが晴れるだろうか。

「はい、どうぞ」

男性が、温かいハーブティーを運んできた。湯気が立ち上り、優しい香りが鼻をくすぐる。

「ありがとう、ございます」

一口飲むと、心がじんわりと温まった。

「それで、どうしたんだい？何か、悩んでいることがあるんだろう？」

男性は、私の隣に座り、優しく問いかけてきた。私は、その優しさに甘えるように、言葉を紡ぎ始めた。学校での出来事、友達との関係、そして、漠然とした不安。思いつくままに、正直に話した。

男性は、じっと私の話を聞いてくれた。時折、相槌を打ったり、頷いたりしながら。その表情からは、非難や軽蔑の色は一切感じられなかった。ただ、真剣に、私の言葉を受け止めようとしてくれているのが伝わってきた。

「そうか…それは辛かったね。君が一人で抱え込んでいたんだね」

話を聞き終えた男性は、静かに言った。その言葉に、私は胸に詰まっていたものが、少しずつ溶けていくような感覚を覚えた。

「ありがとう、ございます。なんだか、少し楽になりました」

「それは良かった。でも、まだ全部話せていないんじゃないかい？もし、話したいことがあれば、いつでも聞くよ」

男性は、さらに優しい笑顔で私を見つめた。その瞳は、まるで私の心を見透かしているかのようだった。

「あの…」

もう一度、言葉に詰まる。話したいことは、まだたくさんあった。でも、どう言えばいいのか、自分でも整理できていない部分もあった。

「大丈夫だよ。ゆっくりでいい。君が、一番楽な言葉で話せばいいんだ」

男性は、私の背中を優しく撫でた。その温かさに、私はさらに安心感を覚えた。

「あの…実は、最近、自分自身が分からなくなってしまって…」

ぽつり、ぽつりと、言葉がこぼれ落ちる。自分が、本当はどうしたいのか、どうありたいのか。それが、分からなくなってしまっていた。周りの期待に応えようとするあまり、自分を見失ってしまった。

男性は、黙って私の言葉を聞き続けてくれた。そして、私が話し終えると、静かに口を開いた。

「君は、とても真面目で、優しい子なんだね。だからこそ、色々なことを背負い込んでしまうんだろう。でも、忘れないでほしい。君は、君自身のままで、素晴らしいんだよ」

その言葉は、まるで魔法のようだった。今まで、誰かに言われたことのない言葉。私は、思わず顔を上げた。

「え…？」

男性の表情は、先ほどまでとは、明らかに違っていた。あの、穏やかな中年男性の面影は、どこにもなかった。彼の瞳は、ギラギラと光り、口元には、歪んだ笑みが浮かんでいた。

「君は、自分のことを、もっと大切にしなきゃいけない。周りの意見に流されるのではなく、君自身の心に、耳を澄ませるんだ」

彼の声は、低く、そしてどこか威圧的だった。先ほどの優しさは、まるで仮面だったかのようだ。

「あの…」

恐怖で声が震える。この人は、一体何なんだ？

「大丈夫、大丈夫。君が、自分自身を取り戻すのを、手伝ってあげるから」

男性は、ゆっくりと私に近づいてきた。その手は、私を支えるのではなく、まるで檻に閉じ込めるかのように、伸びてくる。

「え、あの、私、もう帰らないと…」

必死に抵抗しようとするが、私の力は、彼の前ではあまりにも非力だった。

「帰らないよ。君は、これから、俺と一緒にいるんだ。君の本当の姿を、見せてくれるんだ」

彼の言葉は、甘く、そして恐ろしかった。陽だまりのような部屋は、いつの間にか、私を閉じ込める檻へと変わっていた。逃げ場のない、暗く、冷たい檻。

「いや…いやです！」

私は、叫んだ。でも、その声は、部屋の壁に吸い込まれていくように、かき消されてしまった。

太陽は、相変わらず窓から差し込んでいる。でも、もうそれは、私を温める陽射しではなかった。それは、私を焼き付ける、冷たい光だった。私の、逃げ場のない、陽だまりの檻。