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■ 密会の残響

　ホテル「白昼夢」のドアが閉まる音は、まるで外界との隔絶を告げる鎮魂歌のように響いた。窓の外では、都会の喧騒が微かな振動となって壁を通して伝わってくるだけ。この103号室だけが、時間も、理屈も、そして、罪悪感さえも、一時的に停止した特異な空間だった。

　彼女、佐倉綾子は、夫の浩介に言わせれば「完璧な妻」だった。共働きで忙しい彼のために、毎日温かい食事を用意し、散らかる前に掃除をし、週末には必ず笑顔で彼を迎える。そんな模範的な妻の顔の裏側で、彼女は激しい渇望に身を焦がしていた。それは、日常の単調さと、夫からの愛情の「安定」という名の退屈さから来るものだった。

　目の前にいる男、加藤裕太は、そんな綾子の渇望を満たす存在だった。彼は、偶然再会した大学時代の友人。軽薄そうな笑顔の裏には、時折見せる鋭い眼差しがあり、それが綾子の心を掻き立てた。二人の関係は、数週間前にSNSでの再会から始まり、すぐに、こうして密会を重ねるようになった。

　部屋には、かすかに残る香水の香りと、男のタバコの匂いが混じり合っていた。綾子は、バスローブの紐をぎゅっと握りしめた。夫との関係では決して味わえない、スリルと背徳感。その両方を、裕太は惜しみなく綾子に与えてくれた。

「顔色が悪いぞ、綾子さん」

　裕太が、ソファに座ったまま、彼女の顔を覗き込んだ。その声には、心配とも、からかいともとれる響きがあった。

「別に…」

　綾子は、素っ気なく答えた。本当は、胸の鼓動が激しく、顔に火照りがのぼっているのを感じていた。この状況そのものが、彼女を興奮させているのだ。

「嘘つくなよ。俺のこと、考えてたんだろ？」

　裕太は、ニヤリと笑って立ち上がると、綾子の腰に手を回した。その手は、驚くほど暖かく、そして、力強かった。夫の、どこか遠慮がちな触れ方に慣れている綾子にとって、その手は、痺れるような刺激だった。

「…考えたりしないわよ」

　反論する声は、震えていた。裕太は、その震えを聞き逃さなかった。彼は、綾子の頬にそっと触れると、そのまま顔を近づけていった。

「本当か？」

　吐息が、綾子の唇に触れる。その瞬間、綾子の心臓は、さらに激しく脈打った。外界との隔絶されたこの空間では、彼女は「佐倉綾子」という妻ではなく、ただ一人の女だった。そして、裕太は、そんな彼女の「女」の部分を、巧みに引き出していく。

　唇が重なる。それは、まるで長年溜め込んでいた感情が溢れ出すかのようだった。濃厚なキスは、言葉を必要としなかった。互いの舌が絡み合い、吐息が混ざり合う。綾子は、目を閉じた。夫との、日常の営みとは全く違う、剥き出しの感情がぶつかり合うような感覚。それが、彼女を蕩けさせた。

　裕太の手は、彼女のバスローブの紐を解いていく。ゆっくりと、しかし、確実に。その指先が、肌に触れるたびに、綾子は身震いした。それは、恐怖ではなく、抗いがたい悦びだった。

「綺麗だ…」

　裕太の声が、耳元で響く。彼の瞳は、欲望に満ちていた。その視線に射抜かれると、綾子は、自分がどれほどこの瞬間を求めていたのかを、改めて実感した。

　バスローブが、床に滑り落ちる。部屋の薄暗い照明が、綾子の裸体を照らし出す。夫には見せたことのない、自分でも忘れていたような、官能的な肉体。それを、裕太はじっと見つめていた。

「君は、誰にも見せたくないな」

　その言葉に、綾子は、心臓を鷲掴みにされたような感覚を覚えた。それは、愛情とは違う、独占欲。けれど、その独占欲こそが、彼女をこの場に繋ぎ止めていた。

　二人は、ソファに倒れ込むようにして、互いの体を求め合った。肌と肌が触れ合う音、喘ぎ声、そして、言葉にならない叫び。それは、社会的な規範や、理性という鎖を、一時的に解き放った、原始的な交合だった。

　裕太の指が、綾子の体の隅々をなぞっていく。その触れられる箇所全てに、火花が散るようだった。綾子は、彼の背中に爪を立てた。痛い、というよりも、熱い、という感覚。夫との営みは、いつも、どこか儀式めいていた。でも、裕太との時間は、もっと生々しく、激しかった。

　「もっと、強く…」

　綾子の声が、部屋に響いた。それは、彼女自身が驚くほどの、大胆な言葉だった。普段、そんなことを口にする自分は、想像もできなかった。しかし、この空間では、彼女は、自分でも知らなかった自分を引き出されていた。

　裕太は、彼女の言葉に応えるように、さらに激しく彼女を求めた。二人の体は、一つになった。それは、まるで、数年分の溜め込んだ欲望が、一気に噴き出したかのようだった。綾子の体は、歓喜と苦悶の狭間で、激しく波打つ。

　「あ…っ…！」

　限界が近づく。彼女は、裕太の肩に顔を埋めた。彼の汗と、自分の汗が混ざり合う。この、濃厚な一体感。それが、彼女を罪悪感から一時的に解放してくれる、唯一の手段だった。

　やがて、二人の体は、静寂を取り戻した。綾子は、荒い息遣いを整えながら、裕太の胸に寄り添った。彼の、脈打つ心臓の音が、彼女の鼓動と重なる。

　「…疲れただろ？」

　裕太の声は、先ほどまでの激しさが嘘のように、穏やかだった。

「…うん」

　綾子は、小さく頷いた。この、満たされたような、けれど、どこか虚しいような感覚。それが、不倫の、そして、ラブホテルでの密会の、後味だった。

　しばらくして、綾子は、そっと裕太から離れた。バスローブを拾い上げ、身に纏う。その行為は、まるで、この特異な空間から、現実へと引き戻される儀式だった。

「もう、帰らなきゃ」

　彼女の声には、微かな寂しさ、そして、決意が混じっていた。

「そうだな。また、会えるよな？」

　裕太は、彼女の目を見つめた。その瞳には、次に会える日への期待と、それを当然のように思っている傲慢さが、入り混じっていた。

　「…分からないわ」

　綾子は、そう答えるのが精一杯だった。この「白昼夢」から現実に戻れば、彼女は再び「佐倉綾子」という、夫の妻に戻る。そして、この密会で得た、官能的な体験は、彼女の心の中に、深く、そして、危険な残響として刻み込まれるだろう。

　ホテルを出ると、外の空気がひんやりと肌を撫でた。都会の喧騒が、再び彼女の耳に届く。しかし、その音も、どこか遠く、ぼやけて聞こえた。綾子は、ポケットの中の携帯電話を握りしめた。夫からのメールが、何件か届いている。

「ただいま」

　そう、彼女は、いつものように、笑顔で夫を迎えるだろう。そして、この「白昼夢」で体験した、濃厚な密会の残響は、彼女の心の中で、誰にも知られることなく、静かに、しかし、激しく、渦巻くのだった。