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## 虚無の夜、アスリートの叫び

新婚当時、夫の健一は優しくて、仕事から帰るといつも私の顔を覗き込んでくれた。温かいコーヒーを淹れて、他愛もない話で笑い合った日々は、もう遠い昔の記憶になってしまった。数年前から、健一は帰りが遅くなった。最初は単身赴任かと思っていたが、それも嘘だとすぐに分かった。彼は、私を置いて、どこか別の場所で「充実した」日々を送っているらしかった。

「ごめん、今日遅くなる」

毎晩、決まってそんな短いメッセージが送られてくる。その度に、私の心は冷え切っていく。食卓には、一人分の弁当が寂しく並べられる。健一の分の料理を作る必要がなくなり、冷蔵庫には使いきれない食材が眠っている。

夜、一人で眠りにつくのは、もう慣れてしまった。けれど、心の穴はどんどん大きくなるばかりだった。夫の温もりを求めても、もう返ってくることはない。虚無感と、募る欲望。その二つに押し潰されそうになりながら、私は一人、夜を過ごしていた。

ある日、ふと、スマホの画面に映った広告に目が止まった。「あなたの魅力を解き放つ、特別な体験」。それは、アダルトビデオへの出演を募るものであった。最初は、冗談だと思った。私なんかが、そんな世界に関わるなんて、想像もできなかった。しかし、その広告は、私の心の奥底に眠っていた、ある種の衝動を刺激した。

「この歳で…こんなの着るなんて…恥ずかしいわ…」

鏡に映る自分を見て、私はため息をついた。普段は、実用性重視の服ばかり。しかし、この仕事を受けると決めてから、私は少しずつ、自分を変えようとしていた。オンラインストアで、普段なら絶対に手に取らないような、大胆なデザインのランジェリーをいくつか購入した。レースの隙間から覗く肌、肌触りの滑らかなシルク。それらを身につけるたびに、鏡の中の自分は、まるで別人になったように見えた。

「年甲斐もない衣装」だとは分かっていた。けれど、この数年間、誰かに見られること、誰かに求められることを、私はずっと忘れていた。この衣装は、私の中に眠っていた、もう一人の自分を呼び覚ますための、一種の儀式なのかもしれない。

撮影当日。スタジオは、想像していたよりもずっと煌びやかだった。照明は明るく、セットは色とりどり。私は、用意された衣装に着替え、カメラの前に立った。普段の私からは想像もつかないような、露出度の高い下着。その姿に、私は内心で震え上がった。

「大丈夫ですか？初めてですか？」

監督の声が、優しく響いた。私は、こくりと頷くことしかできなかった。

「心配しないで。あなたは、とても魅力的だよ」

その言葉に、少しだけ心が和らいだ。そして、相手役の男優が現れた。彼は、モデルのようにすらりとした長身で、自信に満ちた笑顔をしていた。

「はじめまして。今日はお世話になります」

彼は、私の手をそっと握り、優しく微笑んだ。その指先が触れた瞬間、私の全身に鳥肌が立った。

「緊張していますか？大丈夫、リラックスして」

男優は、私の肩にそっと手を置き、耳元で囁いた。彼の吐息が、私の首筋にかかり、ゾクゾクとした感覚が全身を駆け巡った。

「この歳で、こんな経験をするなんて…」

自分の頭の中で、まだそんな声が聞こえていた。しかし、それは次第に薄れていく。男優からの前戯が始まった。彼の熱い視線、柔らかな唇、そして、触れる指先。それら全てが、私の長年抑えつけられてきた、潜在的な性欲を解放させていくには十分だった。

健一への不満。寂しさ。孤独。それら全てが、この瞬間、官能的な熱へと変わっていく。私は、自分でも驚くほど、大胆になっていった。普段なら、恥ずかしさで顔を赤らめてしまうような行為も、ここでは自然とできてしまう。

男優の指が、私の身体の曲線を描くように触れていく。その度に、私の身体は、まるで意思を持ったかのように、彼の触れる場所へと吸い寄せられていった。初めての経験は、私を戸惑わせるどころか、むしろ私の中の欲望を剥き出しにしていく。

「もっと…」

心の奥底から、そんな声が漏れた。それは、自分でも驚くほどの、力強い声だった。

撮影は、続いた。カメラのフラッシュが、私たちの激しい動きを捉える。私は、ただひたすら、この熱に身を任せた。夫への不満なんて、もうどこかに吹き飛んでしまっていた。ただ、目の前の男優の熱と、自分自身の高まる興奮だけが、私の全てだった。

撮影が終わり、私は部屋で一人、汗を拭きながら、息を整えていた。鏡に映る自分は、先ほどまでの自分とは、まるで別人のようだった。疲れているはずなのに、瞳は輝いている。

「私、何をやっているんだろう…」

一瞬、そんな虚無感が襲った。しかし、すぐにそれは掻き消えた。この経験は、私にとって、失われていた自分を取り戻すための、必要なプロセスだったのかもしれない。

家に帰ると、部屋は静まり返っていた。健一の気配はない。いつものように、一人きりの夜。しかし、今日の私は、昨日までの私とは違っていた。

スマホを手に取り、私は、あの広告のページを開いた。そして、もう一度、自分の顔写真をタップした。

「次も、私に声をかけてくれるだろうか…」

そんな期待が、胸をよぎった。夫への不満は、まだ消えていない。でも、私の心には、新しい火が灯った。この炎が、私をどこへ連れて行くのか、今はまだ分からない。けれど、この虚無の夜に、私はもう一人で泣くだけの女ではいられない。アスリートのように、私は、自分自身の限界を超えていく。