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■ 薔薇色の就活と、黒い欲望

都会の喧騒から少し離れた、静かで緑豊かなキャンパス。その中心に燦然と輝く「聖ルチア女子大学」の校名が、彼女の生い立ちを物語っていた。才色兼備、名門の出。それが、大学生の桃香（ももか）だった。しかし、その薔薇色に彩られた日常に、不穏な影が忍び寄っていた。就職活動という、甘美な未来への扉を開けるための、現実との甘くない対峙である。

連日、朝から晩まで、桃香の予定は埋め尽くされていた。エントリーシートの山、説明会会場への移動、面接。パンストとピンヒールという、就活生らしい装いが、彼女の足元を支えていた。汗ばむ季節、パンストは湿気と熱を孕み、足に纏わりつく。ピンヒールでアスファルトを歩けば、無数の衝撃が足裏に響き、靴の中は想像以上に過酷な環境となっていた。

そんなある日、桃香は都内の有名企業の説明会に足を運んでいた。広々とした会場には、多くの就活生がひしめき合っていた。緊張と期待が入り混じる中、彼女はふと、視線を感じた。それは、説明会が始まって以来、ずっと彼女の足元に注がれている視線だった。

「…なんだろう？」

最初は気のせいかと思った。しかし、その視線は執拗で、まるで獲物を狙う捕食者のように、彼女のパンストに包まれた足首、そしてパンプスへと注がれていた。説明会が終わり、参加者がぞろぞろと会場を出ていく。その時、彼女の背後から、あの視線の主らしき男が声をかけてきた。

「あの…」

振り向くと、そこには、ぼさぼさの髪と、どこか卑屈な影を帯びた男性が立っていた。同じ大学から来た、就活仲間だという。名前は確か、健一。目立たない、おとなしそうな印象だった。

「どうかしましたか？」

桃香は、警戒心を隠しながら尋ねた。健一は、視線を彷徨わせながら、おずおずと口を開いた。

「あの…さっきから、あなたの足ばっかり見てしまって…」

その言葉に、桃香の顔に冷たい汗が滲んだ。やはり、あの視線は間違いではなかったのだ。

「…え？私の足？」

「はい…すごく綺麗で…」

健一の視線は、再び桃香の足元へと滑り落ちていった。その視線には、単なる称賛を超えた、何か暗く、ねっとりとしたものが宿っているように見えた。

「それ、毎日履いてる就活のパンプスですよね？きっと、すごく…」

健一の言葉は、そこで途切れた。そして、唐突に、桃香の足元に膝をつき、その顔を近づけてきた。

「…くさいですか？…さっきからももかの足ばかり見てるでしょ！」

桃香は、混乱と不快感で身を硬くした。彼女の怒りが、顔に現れた。

「ちょ、ちょっと、何してるんですか！」

「毎日履いてる就活パンプス！…舌で掃除してみて！」

健一の言葉は、ますますエスカレートしていく。その目は、興奮で爛々と輝いていた。

「…皮にももかの汗が染みこんだ味がするでしょう？…くっさいパンスト嗅がせちゃおうかな～！」

桃香は、恐怖と嫌悪感で顔を引きつらせた。これは、単なる変態ではない。危険な兆候だ。

「やめて！気持ち悪い！」

「くっさい中敷きの臭い吸い込んで！！…足裏も靴の中敷きもベトベト…つま先から嗅いでね！指と指の間もくさいんだから！」

健一は、桃香の言葉を一切聞こうとしない。その声は、ますます熱を帯びていく。

「くっさいパンスト足から逃げちゃダメ！ここが固いんだけど！」

健一は、桃香の足に触れようとした。その手つきには、彼女の意志など微塵も考慮されていない。

「離して！警察に言うわよ！」

桃香は、必死に抵抗した。しかし、彼女の細い腕では、健一の力に敵うはずもなかった。

「くっさいパンスト！…顔にこすり付けてあげる！」

健一は、狂ったように笑いながら、桃香のパンストの裾を掴んだ。その時、桃香の頭の中に、ある考えが閃いた。

（…どうにかしないと…このままじゃ…）

彼女は、急いで、しかし冷静に、状況を把握しようとした。この男は、異常だ。そして、彼女の「お嬢様」としてのプライドは、このような卑劣な屈辱に耐えることを許さない。

「…ねぇ」

桃香は、努めて平静な声で健一に話しかけた。

「…もし、私と同じ会社に入れたら…」

健一は、桃香の言葉に、一瞬、動きを止めた。その目には、僅かながらも、理性のようなものが宿ったように見えた。

「…どうなるの？」

「…毎日、私の足の、その…消臭、してくれる？」

桃香の言葉に、健一の顔に、奇妙な笑みが浮かんだ。それは、桃香の想像を絶する、歪んだ同意の笑みだった。

「…へへ…そうか…一緒の会社に入ったら毎日ももかのくっさい足消臭してね！…約束だよ！」

健一は、桃香の足から手を離し、立ち上がった。その姿は、先ほどまでの狂気とは打って変わり、まるで真面目な約束でも交わしたかのような、真摯ささえ帯びていた。

「…ええ、約束よ」

桃香は、震える声で答えた。彼女は、その場を早々に立ち去った。心臓は激しく鼓動し、全身に冷や汗が噴き出していた。

「…あの男…一体…」

彼女は、健一の姿が視界から消えるまで、何度も振り返った。あの、ねっとりとした視線、そして、狂気に満ちた言葉。それは、就職活動という、希望に満ちたはずの舞台に、突如として現れた、黒く、醜い欲望の断片だった。

その日以来、桃香の就職活動は、一変した。以前にも増して、彼女は、健一の存在を意識するようになった。説明会会場で彼を見かけるたびに、心臓が跳ね上がった。彼の視線が、自分の足元に注がれているような気がして、落ち着かなかった。

（…このまま、彼と同じ会社に入ることになるなんて…）

そんな未来を想像するだけで、桃香は鳥肌が立った。しかし、同時に、彼女の頭の中には、あの約束が、重くのしかかっていた。

「…消臭…毎日…」

それは、彼女が自ら作り出してしまった、悪夢のような状況だった。薔薇色の未来への扉を開けるはずだった就職活動は、皮肉にも、彼女に、想像もしなかった「黒い欲望」との、甘くない対峙を強いることになったのである。

大学の図書館で、桃香は、就活関係の資料に目を通していた。しかし、集中できない。健一の顔が、あの、ねっとりとした視線が、脳裏を離れない。

「…どうして、あんなことを言ったんだろう…」

彼女は、ため息をついた。もしかしたら、あの男は、本当に、彼女の足の匂いを嗅ぐことに、異常な興奮を覚えているのかもしれない。そして、あの約束を、真に受けているのかもしれない。

「…もし、本当に、同じ会社に入ったら…」

その想像は、桃香を身震いさせた。彼女は、お嬢様として、これまで、このような屈辱的な状況に直面したことはなかった。しかし、今、彼女は、自らの意思で、その危険な道を選んでしまったのかもしれない。

「…でも、このまま、彼に、追い回されるのは、もっと嫌だ…」

彼女は、自分を奮い立たせた。この状況を、どうにかしなければならない。健一の、あの歪んだ欲望を、利用して、この窮地を脱する必要がある。

「…そうだ…あの約束を、逆手にとるんだ…」

桃香の目に、決意の光が灯った。彼女は、健一の「変態性」を、利用することを決意したのだ。

「…もし、彼が、私の足の匂いに執着するのなら…」

桃香は、ある計画を練り始めた。それは、健一の欲望を、彼自身を縛り付けるための鎖へと変える、大胆で、そして危険な計画だった。

数週間後、桃香は、とある企業の最終面接に臨んでいた。緊張しながらも、彼女は、心の中で、ある男の姿を思い描いていた。健一。彼もまた、この企業の最終面接を受けているはずだ。

面接官との質疑応答が終わり、和やかな雰囲気になった時、桃香は、意を決して、口を開いた。

「あの…私、実は、就活中に出会った、ある男性と、ある約束を交わしました」

面接官たちは、興味深そうに桃香を見た。

「どのような約束ですか？」

「…その男性が、もし、私と同じ会社に入社することができたなら…」

桃香は、言葉を選びながら、しかし、はっきりと語った。

「…毎日、私の足の、その…」

彼女は、一度、言葉を区切り、顔を紅潮させた。

「…消臭をしてくれる、と…」

会場が、静寂に包まれた。面接官たちは、困惑した表情で、桃香を見つめている。

「…え…？」

「…消臭…？」

「…は、はい…」

桃香は、顔を上げ、まっすぐ面接官たちの目を見た。

「…それは、とても、奇妙な約束かもしれませんが…」

彼女は、努めて真摯な表情で続けた。

「…私は、その約束を、守りたいと思っています。そして…もし、彼が、この会社に入社できたなら…」

桃香は、微笑んだ。それは、自信に満ちた、そして、どこか妖艶な微笑みだった。

「…私、彼に、厳しく、指導できると思います」

「…彼が、真面目に仕事に取り組むように、…そして、…私の足の、その…」

桃香は、再び、顔を紅潮させた。

「…消臭も、きちんと、するように、…導いていけると思います」

面接官たちは、互いに顔を見合わせた。彼らは、桃香の言葉の真意を、完全に理解できたわけではなかった。しかし、彼女の、その大胆な発言と、自信に満ちた態度に、ある種の感銘を受けたようだった。

「…なるほど…」

一人の面接官が、ゆっくりと頷いた。

「…面白いですね…」

「…あなたが、その男性を、きちんと、…指導できる、という自負があるのですね」

「…はい。…私は、…彼を、…”まっすぐに”…導いていきたいのです」

桃香の言葉は、その場にいた全員の心に、深く響いた。彼女は、健一の歪んだ欲望を、逆手にとり、それを、彼を「更生」させるための、そして、自分自身の「お嬢様」としてのプライドを守るための、強力な武器に変えたのだ。

就職活動の終わりは、桃香にとって、新たな、そして、想像もしなかった「戦い」の始まりでもあった。彼女は、健一との「約束」を、どのように果たすのだろうか。そして、あの、黒い欲望は、この先、どのように展開していくのだろうか。

桃香の薔薇色の未来は、まだ、始まったばかりだった。しかし、その輝きの中には、既に、濃い影が、静かに、しかし確実に、忍び寄っていた。それは、彼女自身が、意図して招き入れた、甘く、そして危険な影であった。