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■ 湯けむりの誘惑

年に一度、私にとっての聖域とも言える場所がある。それは、都心から離れた山奥にひっそりと佇む、古き良き温泉旅館だ。都会の喧騒を忘れ、日常の疲れを洗い流すための、私だけの贅沢な時間。今年もまた、その時期がやってきた。

重厚な木の扉を開けると、そこには格別な空気が流れていた。磨き上げられた廊下、かすかに香る湯気、そして、耳に心地よい静寂。ここに来ると、まるでタイムスリップしたかのような感覚に陥る。

「ようこそ、〇〇様。本日は、私、田中がご案内させていただきます。」

そう言って現れたのは、息をのむほど美しい女性だった。艶やかな黒髪はゆるやかにウェーブを描き、切れ長の瞳は吸い込まれるような深みを湛えている。すらりと伸びた首筋、絹のような肌。着慣れた仲居の着物も、彼女が纏うことで途方もない色香を放っていた。年の頃は、三十代後半だろうか。上品な色気と、どこか憂いを帯びた表情が、私を魅了してやまなかった。

「田中さん。今年も、どうぞよろしくお願いします。」

思わず、かすかに声が上ずる。彼女もまた、優しく微笑んでくれた。その微笑み一つで、私の心はもう、この旅館の虜になっていた。

部屋へ案内され、荷物を置く。窓の外には、青々とした木々が連なり、遠くにはかすかに山並みが見えた。静かで、心地よい。

「お茶をお持ちしますね。」

田中さんが部屋を出て行くと、私は一人、この空間に身を置いた。年に一度のこの時間は、私にとって単なる休息ではない。日頃の激務で疲弊した心を癒し、五感を研ぎ起こすための儀式のようなものだ。そして、この旅館と、そこにいる田中さんの存在が、その儀式に不可欠な要素となっていた。

しばらくして、田中さんが湯呑みを手に戻ってきた。湯気の向こうに浮かぶ彼女の横顔は、まるで絵画のようだった。

「ありがとうございます。田中さんは、この旅館にお勤めされて、もうずいぶん長いのですか？」

「ええ。もう、十数年になります。」

「そうなんですね。お忙しい毎日かとは思いますが、リフレッシュする時間は取れていますか？」

私の問いに、田中さんの表情がかすかに曇った。

「なかなか、そうもいきませんで。お客様の満足が第一ですから、どうしても自分の時間は後回しになってしまいます。」

その言葉に、私は胸が締め付けられるような思いをした。こんなにも美しいのに、彼女自身は、自分の美しさを慈しむ時間も持てないのかもしれない。旅館という、お客様をもてなす場に身を置くことの厳しさを、改めて感じた。

「それは、大変ですね。」

「いえ、お客様に喜んでいただけると、それだけで励みになります。」

そう言って、彼女は再び微笑んだ。しかし、その瞳の奥には、微かな疲労の色が宿っているように見えた。

夕食の準備が整い、食事処へ案内される。旬の食材をふんだんに使った料理は、どれも絶品だった。しかし、私の目は、どうしても田中さんに釘付けになってしまう。料理の説明をする彼女の声は、鈴のように澄んでいて、その仕草の一つ一つが、洗練されている。

「田中さん、少し、お疲れのご様子ですね。」

食事中、私は意を決してそう言った。彼女は少し驚いた顔をしたが、すぐに苦笑いを浮かべた。

「あら、お見苦しいところを。やはり、無理がたたっているのかもしれません。」

「無理なさらないでください。年に一度とはいえ、私のような客相手でも、大変なことは多いはずです。」

私は、田中さんの手元にそっと手を伸ばした。温かく、柔らかい感触。彼女は、驚いたように私を見た。

「お客様、これは…」

「大丈夫です。少しでも、田中さんの疲れを癒したいと思ったんです。この手で、お客様を癒すお仕事をしているのですから、ご自身も癒されるべきです。」

私の言葉に、田中さんは何も言わなかった。ただ、その細い指先が、私の指にそっと絡みついてきた。その瞬間、部屋の空気が変わった。

「…お客様、私、仕事があるので…」

田中さんが、かすかに息を漏らした。その吐息は、甘く、蕩けるようだった。彼女の頬が、ほんのりと赤みを帯びている。私の言葉は、彼女の心にも響いたのだろうか。

「わかっています。だから、手短に。でも、少しだけ、私にも、この時間をください。」

私は、田中さんの指先を、さらに優しく撫でた。彼女の指は、驚くほど滑らかで、指紋一つ一つに、物語が刻まれているかのようだった。その指先から伝わる微かな震えは、彼女の心の揺れを物語っているようだった。

「お客様…」

彼女の声が、さらに甘く響く。その声色に、拒絶の色は微塵も感じられなかった。むしろ、期待のようなものが、そこにはあった。

「田中さん。いつも、私たち客のために、ありがとうございます。」

私は、彼女の手に、そっとキスをした。温かい湯気の向こうで、田中さんの瞳が潤んでいくのが見えた。

「…あ…」

彼女の唇から、微かな喘ぎが漏れた。その声に、私は、彼女がただの美しい仲居ではなく、一人の女性として、この状況を受け止めていることを確信した。

「…まだ、仕事があるのですよね。わかっています。でも、ほんの少しだけ…」

私は、田中さんの顔にそっと手を伸ばし、その頬に触れた。絹のような肌は、驚くほど滑らかで、指先に吸い付くような感触があった。田中さんの瞳が、私をじっと見つめている。その瞳には、戸惑いと、そして、抗いがたい誘惑の色が混じり合っていた。

「…手短に…」

彼女が、掠れた声でそう言った。その言葉は、私への許可であり、そして、彼女自身の心の声でもあったのだろう。

私は、田中さんの手を取り、そっと自分の胸に当てた。彼女の心臓の鼓動が、私の手のひらに伝わってくる。それは、早鐘のように、激しく刻まれていた。

「田中さん。」

私の声は、静かな部屋に響き渡った。田中さんは、私の顔を見上げ、そのまま、そっと目を閉じた。その表情は、まるで、この瞬間を待ち焦がれていたかのようだった。

「…お仕事、大変でしょう。少しでも、癒されたら嬉しいです。」

そう言いながら、私は、田中さんの髪にそっと触れた。艶やかな黒髪は、湯気で少し湿っていた。その指先が、彼女の耳元をかすめる。

「…あ…」

田中さんの吐息が、さらに甘く、部屋中に広がった。それは、まるで、湯けむりが部屋を包み込むように、優しく、そして、濃厚だった。

「…まだ、仕事があるので…」

彼女の言葉は、もはや仕事への制約ではなく、この刹那的な時間を、さらに甘美なものにするための、婉曲な表現に聞こえた。彼女は、まんざらでもなさそうだ。いや、もしかしたら、この瞬間を、誰よりも楽しみにしていたのかもしれない。

私は、田中さんの顔を、さらにゆっくりと近づけた。彼女の瞳が、ゆっくりと開かれる。その瞳には、私への、そして、この甘美な誘惑への、抗いがたい光が宿っていた。

静寂に包まれた部屋には、ただ、湯けむりと、二人の微かな息遣いだけが響いていた。それは、年に一度、私だけが味わうことのできる、特別な夜の始まりだった。