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■ 泡と泡沫

「まったく、こんなもん、時間の無駄だと思ってたんだから。」

マユミは、グラスについた水滴を指でなぞりながら、小さく呟いた。会場は、かつて卒業した高校の近くにある、やや場末感漂うホテルの一室だった。壁には「祝 〇〇回 卒業生同窓会」と書かれた、手作りの、しかしどこか寂しげな垂れ幕がかかっている。

「ま、でも、来てみたら意外と悪くないもんだね。」

隣に座ったサトシが、ビールジョッキを片手にニヤリと笑った。彼は高校時代、クラスのムードメーカーだった。相変わらず、陽気な笑い声が周囲のざわめきに溶け込んでいる。

「意外と、って何よ。」

「だってさ、マユミ。昔はさ、お前、こういう集まり、大嫌いだったじゃん？」

「それは…、まあ、そうだけど。」

マユミは高校時代、どちらかというと目立たない方だった。成績はそこそこ、運動神経は普通、部活動にも特に熱中したわけではない。ただ、静かに本を読んだり、友達と他愛のないおしゃべりをしたりする、ごく普通の女子高生だった。卒業してからも、同窓会のお知らせが来ても、参加することにあまり意味を見出せずにいた。

「なんか、無理して盛り上がって、過去の栄光にしがみついてるみたいで、嫌だったんだよね。」

「まあ、言いたいことはわかるよ。でも、実際来てみたら、そういうのだけじゃないって気づいたんだ。」

マユミは、会場を見渡した。確かに、昔話に花を咲かせているグループもいる。だが、それだけではない。卒業後、それぞれが歩んできた道が、今、この場所で交差している。

「ほら、あそこのタケシなんて、昔はあんなにシャイだったのに、今じゃ営業部長だってさ。全然話しかけやすい雰囲気になってる。」

サトシが指差した方には、スーツ姿の男性が、数人と談笑していた。確かに、高校時代の面影は薄く、堂々とした雰囲気を纏っている。

「あっちのユキコなんて、結婚して子供も三人だって。全然変わらないね、あの笑顔。」

マユミも、知った顔を見つけるたびに、胸の奥が温かくなるのを感じていた。あの頃、一緒に笑い、泣き、悩んだ仲間たち。それぞれの人生で、幾度となく困難を乗り越え、今日ここに集まっている。

「そうなんだよ。婚活パーティーとは全然違うんだよな。」

「え、婚活パーティー？　サトシ、行ったことあるの？」

「いやいや、そういうわけじゃなくてさ。」サトシは慌てたように言った。「だって、ここには、昔の俺たちがいるわけじゃん？　今の、疲れた大人たちの姿じゃなくて、あの頃の、キラキラしてた俺たちが。」

マユミは、サトシの言葉に深く頷いた。まさにその通りだった。ここでは、仕事のプレッシャーも、人間関係の煩わしさも、金銭的な不安も、一時的に忘れられる。ただ、純粋に「あの頃」の自分に戻れるような、そんな感覚があった。

「それに、何だか、みんな、ちょっと寂しそうじゃない？」

「寂しそう？」

「うん。きっと、みんな、一生懸命生きてきたんだと思うんだ。でも、その中で、何かを失くしてしまった、とか、本当はこうなりたかったんじゃない、とか、そういう思いを抱えてるんじゃないかな。」

マユミは、サトシの鋭い洞察に舌を巻いた。確かに、顔を合わせて昔話をするうちに、そんな本音がポツリポツリと零れてくる人もいた。

「だから、こうやって、昔の自分たちと再会することで、自分の中の何かを取り戻そうとしてるのかもしれない。」

「もしかしたら、そうかもね。」

マユミは、グラスに残ったワインを一口飲んだ。アルコールが、心地よく回ってくる。会場のBGMも、懐かしい曲が流れている。

「あ、マユミ！　そっちにいるって聞いたよ！」

突然、背後から声がかかった。振り返ると、そこには、高校時代、マユミと一番仲の良かったアヤカが立っていた。

「アヤカ！　久しぶり！」

二人は抱き合った。アヤカは、卒業後、海外で活躍したいという夢を追いかけ、数年前まで海外に住んでいた。今回、一時帰国に合わせて、同窓会への参加を決めたのだという。

「いやー、会えて嬉しい！　マユミ、全然変わってないね！」

「アヤカこそ！　ますます綺麗になった！」

二人は、すぐに昔話に花を咲かせた。あの頃、二人でこっそり読んでいた漫画の話、初めてのお小遣いで買ったCDの話、そして、クラスの男子の噂話。話せば話すほど、あの頃の鮮明な記憶が蘇ってくる。

「そういえばさ、マユミ、あの頃、ケンジのこと好きだったでしょ？」

アヤカが、いたずらっぽく笑いながら言った。ケンジは、高校時代、マユミが密かに想いを寄せていたクラスメイトだった。

「もう、アヤカ！　そんなこと、まだ覚えてるの？」

「もちろん！　マユミがケンジのノートをこっそり覗いてたの、私だけ知ってたんだから！」

二人の笑い声が、会場に響く。そんな中、マユミの視線は、ふと、会場の隅にいる一人の男性に吸い寄せられた。

「あれ…、ケンジ？」

それは、紛れもないケンジだった。高校時代とは少し雰囲気が変わったが、あの頃と変わらない、少し影のある瞳。彼は、一人でカクテルを傾けていた。

「マユミ、あの人、ケンジ？」アヤカも気づいたようだ。

「うん…。」

マユミは、胸がドキドキするのを感じた。まさか、こんなところで、ケンジと再会するなんて。

「行ってみたら？」アヤカが優しく背中を押した。

「でも…。」

「大丈夫だよ。昔の仲間なんだから。」

マユミは、意を決して、ケンジの元へと歩み寄った。

「あの…、ケンジ？」

ケンジは、ゆっくりと顔を上げた。そして、マユミの顔を見た瞬間、目を見開いた。

「マユミ…？　本当にマユミか？」

「うん、私だよ。」

二人の間に、しばしの沈黙が流れた。そして、ケンジが、ふっと、柔らかな笑みを浮かべた。

「久しぶりだな。」

その言葉に、マユミの緊張が、ふっと解けた。

「久しぶり。元気だった？」

「まあ、なんとか。マユミは？」

「私も、まあ、なんとか。」

二人は、ぎこちないながらも、会話を続けた。お互いの近況を話し、昔の思い出に触れた。ケンジは、高校卒業後、実家の家業を継ぎ、今は父親の跡を継いで、静かに働いているという。

「あの頃、マユミは、文学少女だったよな。」ケンジが、ふと、懐かしそうに言った。

「そうだったかな。ケンジは、いつも一人で、難しい本を読んでたよね。」

「まあ、逃げ場だったんだ、あの頃は。」

「逃げ場？」

「うん。現実から、少しだけ、遠くへ行ける気がしたんだ。」

ケンジの言葉に、マユミは、胸が締め付けられるような思いがした。彼もまた、自分と同じように、どこかで寂しさを抱えて生きてきたのかもしれない。

「でも、こうやって、昔の仲間と会えると、なんか、元気が出てくるな。」ケンジが、マユミの目を見て言った。

その言葉に、マユミは、自分が同窓会に来てよかった、という思いを、改めて強く感じていた。

「うん、私も。なんだか、昔の自分に戻れた気がする。」

二人の会話は、途切れることなく続いた。会場の喧騒も、BGMの音も、遠いもののように感じられた。ただ、目の前のケンジと、昔の自分たちの思い出だけが、鮮明にそこにあった。

「ところで、マユミ。あの頃、俺のこと、どう思ってた？」

突然、ケンジが、真顔で尋ねた。マユミは、ドキッとした。まさか、今、そんなことを聞かれるなんて。

「え…？　どうって…。」

「いや、なんとなく。ずっと、気になってたんだ。」

ケンジの真剣な眼差しに、マユミは、正直に答えることにした。

「…好き、だったよ。」

その言葉を聞いたケンジの顔に、驚きと、そして、喜びの表情が浮かんだ。

「本当か？」

「うん。」

「俺も、マユミのこと、ずっと、気になってたんだ。」

二人の間に、再び沈黙が訪れた。だが、今度の沈黙は、先ほどとは違い、温かく、そして、甘い空気に満ちていた。

「この後、少し、二人で話さないか？」ケンジが、マユミの手をそっと取った。

マユミは、ケンジの手の温かさを感じながら、頷いた。

「うん、いいよ。」

二人は、人目を避けるように、ホテルのロビーへと向かった。外は、すでに夜の帳が下りていた。

「やっぱり、来てよかったな。」

マユミは、ホテルのロビーのソファに座りながら、独り言のように呟いた。

「婚活パーティーなんて、どうでもいいと思っていたけど…きてよかった。」

それは、単に懐かしい仲間との再会というだけではない、もっと深い、心の奥底からの解放感だった。過去の自分との再会、そして、隠していた本当の気持ちとの再会。

「安心感からの不貞行為が急増中！」という、どこかで聞いたような文句が頭をよぎった。だが、マユミの心には、そんな言葉とは無縁の、純粋な幸福感が満ち溢れていた。

これは、婚活でも、一夜限りの関係でもない。これは、失くしかけていた自分自身との再会、そして、過去という名の宝物との再会なのだ。

マユミは、隣に座ったケンジの横顔を見つめた。彼の瞳には、あの頃と同じ、懐かしい光が灯っていた。そして、この再会が、これから先の人生に、どんな光を灯してくれるのだろうか、そんな期待に胸を膨らませていた。