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## 陽だまりの秘密

秋の陽射しが、窓ガラス越しに温かく部屋を満たしていた。リビングに置かれたソファに、聡子はゆったりと腰を下ろす。傍らには、彼女の隣に座る夫の健一が、静かに文庫本を読んでいる。結婚して三年、二人の穏やかな日常は、まるでこの陽射しのようだ。しかし、聡子の胸の内には、誰にも打ち明けられない秘密が、小さな波紋のように広がっていた。

その秘密とは、聡子が匿名で活動している、とあるウェブサイトでの“活動”のことだった。元々、学生時代から写真に興味があった聡子は、趣味の延長で始めたポートレート撮影に、次第に没頭していった。そして、その写真を投稿できるプラットフォームとして見つけたのが、そのウェブサイトだったのだ。そこでは、顔を隠して、自身の創作活動を発表する多くの人々がいた。聡子もまた、顔出しはせずに、趣味で撮りためた風景写真や、時には自身のポートレートを投稿していた。

しかし、運命のいたずらか、聡子の写真、特に顔の一部を写したポートレートが、予想外の注目を集めることになった。彼女のポートレートは、どこか切なげで、それでいて力強い眼差しが印象的だった。そして、そのモデルは、もちろん聡子自身だ。ある日、彼女はいつものように、自宅近くの公園で、秋の紅葉を背景に自撮りをした。その写真に、ふと、彼女の横顔が少しだけ写り込んでいたのだ。それは、意図したものではなく、偶然の一枚だった。

その写真が投稿されるや否や、コメント欄は騒然となった。「モデルさんの表情が素晴らしい」「こんなに美しい人を見たことがない」「加工もしていない、リアルな美しさだ」といった賛辞が次々と寄せられた。聡子自身、自分の写真にそこまで反響があるとは思ってもみなかった。しかし、同時に、ある種の恐怖も感じ始めた。

「これ、もし旦那さんや知人に見られたら…どうなるんだろう？」

そんな不安が、日増しに大きくなっていった。聡子の住む町は、決して大きくはない。彼女自身、学生時代はどちらかといえば目立つ方だったという自覚もあった。特に、そのウェブサイトでの投稿は、匿名とはいえ、もし顔が特定されてしまったら、それは大変なことになる。何よりも、一番心配だったのは、夫の健一だ。

健一は、聡子の趣味には寛容だった。しかし、このような、ややセンセーショナルな注目を集めるような事態に、彼はどう反応するだろうか。健一は真面目で、誠実な人だった。そんな彼に、自分の秘密を知られるのは、何よりも怖かった。

「でも、別に悪いことをしているわけじゃない。ただ、写真が好きなだけなのに…」

聡子は、自分に言い聞かせるように呟いた。しかし、コメント欄に寄せられる、「顔出ししてください！」「もっと見たい！」といった声を見るたびに、彼女の心は揺れた。憧れられること、注目されることは、悪い気はしなかった。それは、彼女が平凡な主婦としての日々を送る中で、忘れかけていた自分の一面を、ふと呼び覚ますような感覚だった。

「でも、でもね…」

聡子は、ソファの背もたれに頭を預けた。彼女の周りには、同じように匿名で活動している人たちがいた。彼女たちの投稿の中にも、聡子と同じように、顔が写ってしまった写真が紛れ込んでいることがあった。そして、そんな投稿のコメント欄には、時折、こんな書き込みも見られた。

「結婚してるのに顔出し大丈夫なんですか？」「旦那さん怒らないの？」「地元の友達にバレたらどうするんですか？」

そういったコメントを見るたびに、聡子の胸は締め付けられた。まさに、自分が抱えている懸念そのものだった。彼女たちは、聡子と同じように、家族や周囲の人々からの目を気にしながら、それでも「好き」という気持ちに突き動かされて、活動を続けているのだ。

「私も、いつかバレちゃうのかな…」

そんな考えが頭をよぎり、聡子はそっと目を閉じた。健一は、聡子がそのようなウェブサイトを利用していること自体、知らなかった。聡子は、普段からスマホを健一に見られることに抵抗はなかったが、あのウェブサイトを開くときだけは、そっと画面を隠すようにしていた。それは、嘘をついている、という罪悪感にも似た感情だった。

ある日、聡子はいつものように、公園で写真を撮っていた。紅葉は盛りを過ぎ、落ち葉が絨毯のように地面を覆っていた。健一は、仕事で遅くなるという連絡が入っていた。聡子は、一人の時間を満喫しようと、カメラを手に散歩に出かけたのだ。

ふと、彼女は大きなケヤキの木を見つけた。その木の下に立つと、まるで自分が絵画の中に迷い込んだような感覚になった。聡子は、そのケヤキの木を背景に、数枚の写真を撮った。そのうちの一枚は、木漏れ日の中に、彼女の顔がぼんやりと写り込んでいた。いつものように、少しだけ顔が見える程度だ。

その夜、聡子は例のウェブサイトに、その写真を投稿した。特に何も考えずに、ただ、その日の美しい景色を共有したかったのだ。しかし、その写真が、思いもよらない事態を引き起こすことになる。

翌朝、聡子はいつものように朝食の準備をしていた。健一は、少し早く起き、新聞を読んでいた。聡子は、何気なくスマホに目をやった。すると、通知が溜まっていた。それは、例のウェブサイトからの通知だった。

「えっ？」

聡子は、慌ててスマホを開いた。そこには、昨日投稿した写真に対する、驚くほどの反響が寄せられていたのだ。コメントの数は、これまでの比ではなかった。そして、その中に、聡子の心臓を凍りつかせるようなコメントがあった。

「〇〇（聡子の住んでいる町の名前）の公園だよね？このケヤキの木、うちの近所だよ。それに、モデルさん、〇〇（聡子の名前に似た名前）さんじゃない？」

「私も、あの公園で見たことあるかも！確か、〇〇（聡子の通っていた中学校の名前）出身の人に似てる…」

「ちょっと、この写真、旦那さんのブログにも載ってたんじゃない？似てる人がいるんだけど…」

聡子の手は震え始めた。まずい、と思った。コメントは、どんどん具体的になっていった。まるで、探偵のように、彼女のプライベートな情報を次々と明らかにしていくかのようだった。そして、その中に、特に聡子を不安にさせたコメントがあった。

「あの、すみません。もしこの方が、私の知っている方だったら、教えてもらえませんか？結婚されていて、旦那さんもいらっしゃる方なんですけど…」

このコメントは、聡子の胸に直接突き刺さった。それは、聡子自身のことだったのだ。そのコメント主は、おそらく聡子と同じ町に住んでいて、彼女のことを知っている人物なのだろう。そして、聡子の秘密に、気づき始めているのだ。

聡子は、顔面蒼白になった。健一が、いつこのコメントに気づくか分からない。もし、このコメントを見て、自分の奥さんに似ていると思ったとしたら…？

「聡子？どうしたんだ？」

健一の声に、聡子は飛び上がった。彼女は、慌ててスマホを隠したが、もう遅かった。健一は、聡子の異様な様子に気づいていた。

「大丈夫か？顔色が悪いぞ」

健一は、聡子の傍らに歩み寄り、心配そうに声をかけた。聡子は、どうすれば良いか分からなかった。このまま、何も言わずにいることも、嘘をついていることになる。しかし、全てを打ち明けることも、怖かった。

「あのね…ちょっと、言いにくいことがあるんだけど…」

聡子の声は、震えていた。健一は、聡子の顔をじっと見つめた。その目は、いつもと変わらず、優しかった。

「なんだ？話してみろよ」

聡子は、意を決して、全てを話し始めた。ウェブサイトのこと、写真のこと、そして、自分が匿名で活動していること。そして、今、その秘密がバレそうになっていること。話しながら、聡子の目からは涙がこぼれ落ちた。

健一は、聡子の話を黙って聞いていた。聡子の話が終わると、部屋は静寂に包まれた。聡子は、健一の反応を恐る恐る待った。怒られるかもしれない。失望されるかもしれない。

しかし、健一は、聡子の手をそっと握った。

「聡子…」

健一の声は、穏やかだった。

「俺は、聡子が写真を撮るのが好きなのは知ってたよ。それで、楽しんでいるなら、何も言うつもりはない」

聡子は、目を見開いた。健一は、既に聡子の趣味を知っていたのだろうか。

「でも…」健一は、聡子の手をさらに強く握った。「もし、それが原因で、聡子が苦しんでいるなら…それは、俺もつらい」

健一は、聡子の肩に手を置いた。

「顔バレ、心配なんだろ？もし、バレて、嫌な思いをするなら、無理する必要はないんじゃないか？」

聡子は、健一の言葉に、胸の奥から温かいものが込み上げてくるのを感じた。彼女が、最も恐れていた反応とは全く違うものだった。健一は、聡子の行動を否定するのではなく、聡子の気持ちを一番に考えてくれていたのだ。

「でも、私…」聡子は、絞り出すように言った。「写真、好きなんです。自分の撮った写真で、誰かが喜んでくれたら、嬉しいって…」

健一は、優しく微笑んだ。

「それは、素晴らしいことだよ。でも、だからと言って、自分が傷つく必要はない」

健一は、スマホを聡子に見せた。そこには、昨日のコメントが並んでいた。健一は、聡子に言った。

「俺も、これを見た時は、少し驚いたけど…でも、聡子なら大丈夫だと思ったよ」

「大丈夫って…？」

「聡子は、決して悪い人間じゃない。俺は、それを知ってる。だから、もしバレたとしても、誰かが聡子のことを誤解するようなことは、ないはずだ」

健一は、聡子の髪を優しく撫でた。

「それに、もし本当に知人や親戚にバレて、何か問題が起こるようなら…その時は、俺が一緒に、話を聞くから」

その言葉に、聡子の目から再び涙が溢れた。それは、もう恐怖の涙ではなかった。安堵と感謝の涙だった。

「ありがとう、健一…」

聡子は、健一の胸に顔を埋めた。健一は、聡子の背中を優しく撫でた。陽だまりのような温かさが、部屋を満たしていた。

その後、聡子はそのウェブサイトでの活動を、どうするか、健一とじっくり話し合った。健一は、聡子の気持ちを尊重しつつ、もし本当に不安なら、活動を休止することも考えて良いと言ってくれた。

聡子は、少しの間、投稿を控えることにした。しかし、彼女は、写真への情熱を完全に捨てるつもりはなかった。健一の言葉を胸に、彼女は、自分にとって本当に大切なことは何か、を見つめ直そうと思ったのだ。

数日後、聡子は、近所のカフェで、健一と一緒に過ごしていた。窓の外には、澄み渡った青空が広がっていた。彼女は、健一にこっそりとスマホを見せた。そこには、例のウェブサイトのトップページが表示されていた。

「ねぇ、健一」聡子は、いたずらっぽく笑った。「もし、私の写真が、また誰かの目に触れて、バレそうになったら…どうする？」

健一は、聡子の言葉に微笑み、優しく答えた。

「その時は、俺が、聡子の代わりに、『これは、私の妻です！』って、胸を張って言うよ」

聡子は、健一の言葉に、さらに笑顔になった。陽だまりのように温かい、二人の秘密は、これからも続いていくのだろう。顔バレの心配は、まだ少し残っていたけれど、それ以上に、二人で支え合っていけるという確信が、聡子の心を満たしていた。彼女は、この温かい陽射しの中で、きっと、自分らしい写真を見つけ出せるだろうと、そう思っていた。