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## 休日の憂鬱と、かすかな灯り

「ふぅ…」

深いため息とともに、ジョッキに残った琥珀色の液体を喉に流し込む。馴染みの居酒屋「わすれもの」のカウンター席。金曜日の夜だというのに、店内の賑わいはどこか遠い世界の出来事のように感じられた。いつもの喧騒も、今日は私の耳には届きにくい。

じゅん、35歳。クレーム対応の仕事に心身ともに疲れ果てたこの金曜日。本当なら、明日の朝は寝坊して、昼には近所のカフェでゆっくりと本でも読むはずだった。それが、昨夜の夫の言葉が脳裏を離れず、まったく眠れなかったのだ。

「…ごめん、もうしないから。信じてほしい」

あの夜、泣きながら訴えてきた夫の言葉。浮気相手と二人きりで過ごし、私に嘘をつき続けた彼。一度は「もう二度としない」と誓い、私もそれを信じようとした。でも、人間の記憶というのは厄介なもので、一度植え付けられた疑念は、そう簡単に消え去るものではない。ふとした瞬間に、あの甘い囁き、あの部屋の匂い、そして、あの表情が蘇ってくる。

今夜は、そのモヤモヤとした感情を、一人酒で洗い流そうと決めていた。特別なことは何もない。いつものように、熱燗をちびちびとやりながら、気まぐれに大将が出すおつまみを味わう。それが、私のささやかな、そして唯一の心の慰めだった。

「じゅんさん、今日も早いねぇ」

隣から声がかかる。顔を上げると、そこにはつばささんがいた。28歳。この店では私よりもずっと早くから顔馴染みになった、明るく元気な女性だ。彼女もまた、私と同じように一人で飲みに来る常連客。ふわりと漂う甘い香りと、健康的な肌の色が、私のどんよりとした気分を少しだけ照らす。

「つばさちゃん、こんばんは。今日は早めに切り上げたのよ」

「そうなんだ。私も、仕事でちょっと大変なことがあってさ。一杯だけ飲んで、帰ろうと思って」

彼女の口調は、いつもの明るさの中に、ほんの少しだけ疲労の色が滲んでいた。Gカップという豊かな胸を揺らしながら、彼女は私の隣に滑り込むように座る。その仕草が、なぜか私を安心させる。

「大変なこと？また、なんかあった？」

「ううん、別に大したことじゃないんだけどね。なんか、最近さ、男の人ばっかり見てるような気がして」

彼女がそう言うと、私は思わず笑ってしまった。

「男の人ばっかり？それはどういう意味？」

「なんかね、最近、私がお店を出るときとか、酔っ払った男の人が声をかけてくることが増えたの。もちろん、断ってるんだけどさ。断ってるんだけど、なんか、そういうのを断ることに疲れてきちゃって」

彼女はそう言いながら、熱燗の徳利を手に取った。その指先が、私のグラスに触れそうになる。ほんの一瞬の出来事だったが、私の胸がドキリとした。彼女の指は、すらりとしていて、美しい。

「でも、つばさちゃんだって、綺麗だし、モテるんだから、そういうのは仕方ないんじゃない？」

私の言葉に、つばささんはふっと笑った。

「そうかなぁ？でも、そういうのって、別に望んでるわけじゃないからさ。むしろ、ちょっと面倒くさいんだよね。断るのも、相手の顔色伺うのも、疲れるんだよ」

彼女の言葉は、どこか私の心の奥底にある感情と響き合っているようだった。私もまた、夫の浮気という出来事を通して、男という生き物に対して、どこか斜に構えてしまう自分がいた。信じることの難しさ、裏切られたときの傷つきやすさ。それらを経験したからこそ、彼女の言葉が、妙に理解できた。

「私も、そういうの、嫌いじゃないけどね」

つばささんが、突然、私の耳元でささやいた。その吐息が、私の首筋をくすぐる。私は思わず身を引いてしまった。彼女の意図が、一瞬わからなかった。

「え？」

「いや、なんでもないよ」

彼女はそう言って、また自分のグラスに目を落とした。しかし、その瞳の奥に、微かないたずらっぽい光が見えたような気がした。

「でもさ、じゅんさん。もし、そういう面倒くさいことから解放されたいなら、私、いい方法知ってるんだけど」

彼女はそう言うなり、私の手を取った。その温かさに、私は少し戸惑った。彼女の手は、柔らかくて、少しひんやりとしている。

「え、何？どういうこと？」

「ふふ。まずは、この一杯を飲み干そうよ。そしたら、ね」

彼女はそう言って、私のグラスに自分のグラスを軽く合わせた。乾杯の音とともに、喉を潤した熱燗は、普段よりも少し甘く感じられた。

店を出たのは、それからそれほど時間を置かずにだった。つばささんが「私の家、すぐそこだから」と誘ってくれたのだ。断る理由も、もはや見当たらなかった。夫への怒りも、仕事の疲れも、あの夜の出来事も、今はすべて、霧の中に消えてしまったかのようだった。

彼女の家は、想像していたよりもずっと広かった。シンプルな家具が置かれた、モダンな部屋。窓からは、街の灯りがきらめいている。

「どうぞ、座って」

彼女は私をソファに促し、自らはキッチンのカウンターに向かった。そして、慣れた手つきで、ウイスキーのボトルを取り出した。

「え、お酒、まだ飲むの？」

「大丈夫、大丈夫。今日は、ちょっとだけ、ね」

彼女はそう言いながら、私にもグラスを差し出した。琥珀色の液体が、グラスの中で揺れている。

「で、さっきの、『解放されたいならいい方法』って、なんなの？」

私が尋ねると、彼女はニヤリと笑った。

「それはね…」

彼女は言葉を区切り、ゆっくりと私の顔に近づいた。その視線は、まるで獲物を見定めているかのようだ。しかし、その中には、さっきまでの疲労の色は微塵も感じられない。むしろ、研ぎ澄まされたような、強い光が宿っていた。

「じゅんさん、疲れてるんでしょ？ストレス溜まってるんでしょ？」

彼女は私の肩にそっと手を置いた。その手は、先ほどよりも力強く、そして、どこか挑発的な温かさを帯びていた。

「でも、大丈夫。私、そういうの、得意だから」

彼女はそう言うと、私の耳元で、さらに囁いた。

「ねぇ、じゅんさん。今日は、ただ、忘れることだけ考えようよ。この、世の中の、面倒なこと、全部、私に預けて、ね」

彼女の言葉は、まるで魔法のように、私の心に染み込んでいった。夫への怒り。仕事の重圧。そういったものすべてが、この一瞬、無意味なもののように思えてきた。目の前にいる彼女の瞳は、私を真っ直ぐに見つめている。その瞳の中に、私は、自分自身の、隠されていた欲望を見出した気がした。

そして、私が次に気がついたときには、私は彼女の腕の中にいた。シャツのボタンが、ひとつ、またひとつと外されていく。柔らかい肌の感触、甘い吐息。それは、私が普段、仕事で接しているどの人間とも違う、生々しい熱を帯びていた。

「…つばさちゃん…」

私の声は、まるで夢の中にいるかのように、遠く響いた。彼女の視線は、私の顔を舐めるように見つめ、そのまま、ゆっくりと、下へと降りていく。その瞳の中に宿る熱は、私の中の何かが、ゆっくりと燃え上がるのを促していた。

彼女は、私の体に優しく触れながら、何度も何度も囁いた。「大丈夫だよ」「全部、私に任せて」と。その声が、まるで祈りのように、私の心の奥底に響き渡る。

しかし、その熱に溺れながらも、私の頭の片隅には、微かな、しかし確かな意識が残っていた。これは、ただの現実逃避なのか。それとも、この満たされない思いを、別の形で埋めようとしているだけなのか。

そして、私は、ふと、気がついた。この、すべてを忘却させてくれるような熱と興奮の裏に、彼女の目的は何なのだろう、と。彼女の、あの「面倒なことから解放されたいなら、いい方法知ってる」という言葉の真意は。

この夜が、私にとってどのような意味を持つのか。それはまだ、私にも、そしておそらく彼女にも、わからない。ただ一つ確かなのは、この休日の夜が、私の予想を遥かに超えた、濃密な時間へと変わりつつあるということだけだった。それは、忘れようとしていた、あるいは、もう一度取り戻そうとしていた何かへの、歪んだ、しかし抗いがたい誘惑だった。そして、私はその誘惑に、身を委ねようとしていた。

夜は、更けていく。街の灯りは、窓ガラスに反射して、部屋の中に、ぼんやりとした影を落としていた。彼女の吐息が、私の耳元で、熱を帯びて響く。それは、この一瞬だけを共有する、禁断の、そして甘美な共犯関係の始まりだった。