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## 凪の残響

「ただいまー」

ドアを開けるたびに、この響き渡らない声が壁に吸い込まれていくような感覚に襲われた。この家も、もう僕の声に応えてはくれない。キーケースをいつもの場所に置く。カツン、という乾いた音が、妙に静かなリビングに響いた。ソファには、彼女の影も形もない。いつもの定位置、窓際の席。そこは、昨夜まで彼女がいた場所だ。

いま思い返せば、兆候は確かにあった。あの時、あの些細な変化たちが、まるで嵐の前の静けさのように、僕の日常に忍び寄っていたのだ。

最初に気づいたのは、彼女が僕の残業や出張の予定を、以前よりも遥かに詳しく聞くようになったことだった。「今日は何時まで？」「明日はどこまで行くの？」その質問の裏には、単なる気遣い以上の、何かを探るような響きがあった。まるで、僕の行動を記録し、分析しているかのようだった。最初は、僕が仕事で疲れていることを心配してくれているのだと、そう自分に言い聞かせた。彼女は優しいから、僕のことをいつも気にかけてくれる。それが、彼女なりの愛情表現なのだと、そう思いたかった。

次に、携帯電話だった。以前は、リビングのテーブルに置いたまま、平気で僕の側を離れていた彼女が、いつからか、肌身離さず持つようになった。トイレに行く時も、キッチンで料理をする時も、必ず手に持っていた。誰かからの連絡を、あるいは誰かに連絡を、それほどまでに切望しているかのようだった。誰と、どんなやり取りをしているのか。その背後にある秘密めいた気配に、僕の心はざわついた。しかし、メンタルの弱い僕は、そのざわつきを無視しようとした。疑うことは、彼女を傷つけることだ。それは、僕が一番恐れていることだった。

そして、化粧や髪型。彼女は元々、自分を磨くことに熱心な女性だった。でも、その頻度と熱量が、明らかに変わった。毎朝、鏡の前で過ごす時間は長くなり、新しいコスメに手を出すことも増えた。新しい服を買いに行き、「これ、どうかな？」と、僕に意見を求めてくる。その度に、僕は彼女の美しさに感嘆し、褒め言葉を口にした。彼女は嬉しそうに微笑んだ。その微笑みを見て、僕はまた、自分の抱いた違和感を打ち消した。彼女は、僕のために、より美しくあろうとしているのだと。

しかし、その違和感は、僕の心の奥底で、静かに、しかし確実に育っていった。まるで、見えない菌のように、僕の日常を蝕んでいく。何かが、おかしい。この、張り詰めた空気は、一体何なんだ。

ある日、彼女が突然、子供のように泣き出した。理由を聞いても、ただ「もう無理」と繰り返すばかり。僕は、懸命に彼女を抱きしめた。背中をさすり、温かい言葉をかけた。でも、彼女の涙は止まらなかった。そして、その夜、彼女は静かに僕の隣からいなくなった。

彼女の荷物がほとんどなくなっていることに気づいたのは、翌朝だった。ソファに、一枚のメモが置かれていた。「ごめんね」とだけ書かれた、短い、冷たい言葉。それだけだった。

それからの日々は、まるで悪夢だった。彼女の携帯に電話をかけても、繋がらない。職場に連絡しても、彼女は退職願を出していた。友人たちに尋ねても、誰も彼女の行方を知らない。まるで、彼女は最初から存在しなかったかのように、跡形もなく消え失せた。

僕は、彼女が残した痕跡を必死に探した。クローゼットの中、引き出しの奥、本棚の隙間。彼女が愛用していた香水の瓶、使いかけのリップクリーム、読みかけの本。それらすべてが、彼女の不在を強烈に意識させ、僕の心を深く抉った。

あの時、あの些細な兆候にもっと真剣に向き合っていれば、何かを変えられたのだろうか。彼女の心に寄り添い、本当の気持ちを聞き出せていれば、この残酷な結末は避けられたのだろうか。

メンタルの弱い僕は、どうしてもネガティブな思考に囚われてしまう。後悔と自責の念が、僕の心を覆い尽くす。彼女を一人にしてしまった。彼女を救えなかった。

でも、時折、ふと、そんな考えが頭をよぎることがある。

「もしかしたら、彼女は望んでいたのかもしれない…」

この惨めな現実から逃れることを。誰かに依存するのではなく、自分の力で生きていくことを。あるいは、僕という存在から解放されることを。

彼女のあの、時折見せる、虚ろな瞳。僕から目をそらす、その仕草。それは、僕が気づかないふりをしていた、彼女の心の叫びだったのかもしれない。

僕の残業や出張の予定を詳しく聞いていたのは、僕がいない間に、彼女が自分の人生を切り開くための準備をしていたからなのかもしれない。携帯を肌身離さず持っていたのは、新しい世界への扉を開くための、誰かとの繋がりを探していたからなのかもしれない。化粧や髪型を気にしていたのは、僕のためではなく、自分自身のため、新しい自分に出会うためだったのかもしれない。

そう考えると、僕の孤独は、さらに深くなる。彼女は、僕の知らないところで、静かに、しかし力強く、自分の人生を歩み始めていたのだ。そして、僕は、その変化に気づきながらも、それを「愛情」という名のフィルターを通して見てしまっていた。

まるで、砂時計の砂が静かに落ちていくように、僕たちの関係は、ゆっくりと、しかし確実に、終わりへと向かっていたのかもしれない。そして、僕のメンタルの弱さは、その流れに逆らうことも、新たな流れを生み出すこともできずに、ただただ、流されることを選んでしまった。

窓の外は、もうすっかり暗くなっていた。街の明かりが、虚しく瞬いている。この部屋に、彼女の温もりはもうない。ただ、彼女が残した、微かな香りの残響だけが、僕の心をかき乱す。

彼女が、この残酷な結末を望んでいたのかもしれない。その言葉が、僕の胸に重くのしかかる。それは、彼女が僕から離れることを、ある意味では肯定しているように聞こえるからだ。彼女が、僕の側から離れることで、本当の自分を見つけられたのなら。それは、僕にとって、彼女の幸せであり、同時に、僕自身の敗北でもある。

でも、もしかしたら、彼女もまた、僕と同じように、この関係のどこかで、苦しんでいたのかもしれない。僕が、彼女の本当の気持ちに気づけなかったことが、彼女を追い詰めてしまったのかもしれない。

冷蔵庫には、彼女が最後に買ってきたらしい、小さなイチゴのパックが残っている。いつか、一緒に食べようと言っていた、あのイチゴ。今は、その鮮やかな赤色が、僕の目を刺す。

この部屋の空気は、もう二度と、彼女の声で満たされることはない。ただ、僕の吐き出す息だけが、静かに、虚しく、この空間に溶けていく。

兆候は、確かにあった。僕のメンタルの弱さが、それらを「見ないふり」をさせていた。もし、あの時、もっと勇気を出して、彼女の心に踏み込んでいれば。もし、あの時、僕の弱さを乗り越えられていれば。

でも、もう、遅い。

彼女が望んでいたのかもしれない、この静寂。それは、僕がこれから、一人で抱えていかなければならない、残酷な現実だった。凪いだ海のように、僕の心は静まり返っている。しかし、その静寂の奥底には、言葉にならない、深い悲しみと、そして、ほんの少しの、理解できない感情が、波のように打ち寄せていた。彼女の選択を、僕が「望んでいた」と解釈することで、僕は、あの惨めな結末を、少しでも肯定しようとしているのかもしれない。それは、僕が、この喪失感と向き合うための、弱々しい、しかし唯一の、抵抗だった。