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## 昼下がりの酒場、夜の逃亡者

夕暮れ時、都会の喧騒から少し離れた路地裏に佇む、古びた暖簾をくぐった。そこは、老若男女が思い思いの時間を過ごす、隠れ家のような居酒屋だった。

「いらっしゃいませ！」

威勢の良い声に迎えられ、りこはカウンター席に腰を下ろした。28歳、既婚。しかし、この時間は彼女だけのものだった。夫が事故で入院してから、数週間。見舞いの合間を縫って、こうして一人で酒を飲むのが日課となっていた。

「マスター、いつものやつ、濃いめで」

マスターは慣れた手つきで、琥珀色の液体をグラスに注ぐ。一口飲むと、喉を伝う熱が、溜まりに溜まった日常の澱を洗い流してくれるようだった。

「旦那さん、まだ退院できないんですか？」

隣に座っていた男性が、心配そうに声をかけてきた。りこは軽く微笑んで、

「ええ、もうしばらくかかりそうです」

と答える。この居酒屋は、そんな風に自然と会話が生まれる場所だった。

「大変ですね。俺も昔、事故で入院したことあって、あの時の不安、よく分かりますよ」

男性は、りこのグラスが空になる前に、自然な流れで注文を取り、さりげなく会話を続ける。彼もまた、一人で静かに飲みに来ているようだった。

「そうなんですね。でも、こうして話を聞いてもらえると、気が紛れます」

りこは、夫の入院生活の愚痴を、ぽつりぽつりと話し始めた。家事、仕事、そして、時折よぎる夫への不安。事故のショックから立ち直れていない彼への、どうしようもない苛立ち。

「奥さんも大変ですね。でも、奥さんが元気でいることが、旦那さんの支えになりますよ」

男性は、りこの言葉を遮ることなく、じっくりと耳を傾けてくれた。その穏やかな口調と、的確な相槌に、りこは次第に心を許していった。

「ありがとうございます。なんだか、スッキリしました」

グラスを空にし、りこは感謝の言葉を伝えた。男性は、

「よければ、もう少しお話しませんか？」

と誘ってきた。普段なら断るりこだったが、その日は、いつもと違う衝動に突き動かされていた。夫の不倫の噂。心のザワつき。

「…はい、喜んで」

断る理由も、もうなかった。

「ところで、かなさんも、旦那さんのことで悩んでるって聞きましたよ」

りこが、かなについて触れると、男性の表情が少し曇った。かなは、りこの友人であり、同じように夫の入院生活を送っていた。

「ええ、まあ…」

かなは、夫の事故以来、どこか吹っ切れたように、大胆な行動をとるようになっていた。りこは、その変化をどこかで期待していたのかもしれない。

「最近、旦那さんの様子がおかしいんですよ。電話に出てくれなかったり、以前より優しくなくなったような気がして…」

かなは、グラスを傾けながら、苦しげに語る。りこは、その言葉に、自分の心の奥底にある不安を重ね合わせていた。

「私も、そんな気がするんです。もしかしたら…」

りこは、言葉を濁したが、かなはそれを理解したように、静かに頷いた。

「でも、ここで悩んでいても仕方ないですよね」

かなが、そう言うと、りこは、ふと、ある考えが頭をよぎった。

「そうですね。たまには、息抜きも必要ですよね」

二人の視線が絡み合う。そこには、言葉にならない、共有された欲望が渦巻いていた。

「この後、よかったら…」

男性が、りこに声をかけた。りこは、一瞬ためらったが、

「…はい、いいですよ」

と答えた。夫への罪悪感よりも、今の自分を解放したいという気持ちが勝っていた。

「りこさん、私も…」

かなが、男性に続いて、りこに声をかけた。りこは、かなの顔を見て、決意を固めた。

「ええ、行きましょう」

三人は、夜の街へと繰り出した。男の家へと向かう道中、りこは、窓の外の夜景を眺めながら、不思議な解放感に浸っていた。夫への裏切り、それは、彼女にとって、禁断の果実のようだった。

男の部屋に招き入れられ、りこは、かなと顔を見合わせた。そこには、言葉にならない、共犯者のような空気が流れていた。

「二人とも、綺麗ですね」

男性は、そう言って、りことなに、熱い視線を送った。りこは、その視線に、体の奥底から、熱いものが込み上げてくるのを感じた。

「私、初めてなんです…」

かなが、震える声で、そう言った。りこは、かなの手を握り、

「大丈夫。私も、あなたと同じだから」

と微笑んだ。

その夜、りこは、夫への罪悪感と、初めての経験への興奮に、身も心も委ねていた。かなもまた、りこと同じように、新しい世界に足を踏み入れていた。

夜が明け、りこは、一人、家路についた。夫は、まだ眠っていた。りこは、夫の寝顔を見つめながら、昨夜の出来事を反芻した。罪悪感と、解放感。どちらの感情が、彼女の心を占めているのか、自分でも分からなかった。

しかし、一つだけ確かなことがあった。それは、彼女が、もう以前の自分ではないということ。昼下がりの酒場で、りこは、新たな自分に出会ったのだ。そして、かなもまた、同じように、新しい世界への扉を開けたのだろう。