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## 虚栄の灯火

薄汚れたネオンサインが、湿ったアスファルトに滲んでいた。古びた雑居ビルの地下にある「月明かり」は、相席居酒屋というにはあまりにも場末感漂う店だった。だが、高垣健太にとって、この場所こそが彼の「狩場」だった。人生の全てを、この一見寂れた店に懸けていた。

健太は、磨き上げた革靴で床を踏みしめ、値札が剥がれかけたカウンター席に滑り込んだ。年齢不詳、それでいてどこか疲れた空気を纏う顔。しかし、その瞳の奥には、ギラギラとした野心が宿っていた。獲物を探す捕食者の、それと同じ光だ。

「マスター、いつものやつ。」

低く抑えた声で注文を済ませると、健太は周囲をぐるりと見渡す。今日の「月明かり」は、いつもより賑わっていた。仕事帰りのサラリーマン、女子大生らしきグループ、そして、健太の目を惹きつける存在――。

赤いワンピースの女性。彼女は一人、窓際の席で静かにグラスを傾けていた。グラスの氷がカラン、と鳴る音だけが、彼女の沈黙を破る。その横顔は、どこか憂いを帯びていた。健太のアンテナが、ビンビンと反応する。これは「獲物」だ。しかも、一筋縄ではいかない、深みのある「獲物」に違いない。

健太は、持ち前のノリと勢いを武器に、彼女のもとへと歩み寄った。

「こんばんは。一人で飲んでるなんて、もったいないですよ。」

不躾な言葉だった。しかし、健太はそれを笑みに変える力を持っていた。あるいは、その「もったいない」という言葉に、彼女自身の孤独への共感が含まれていたのかもしれない。

女性は、ゆっくりと顔を上げた。陶器のような白い肌、憂いを帯びた大きな瞳。彼女こそが、健太が探し求めていた「美人妻」だった。

「あら。」

女性は、静かに微笑んだ。その声には、微かな驚きと、それに続く諦めのような響きがあった。

「ななお、です。」

「健太です。どうぞ、隣、いいですか？」

許可を求めるような仕草だったが、健太はすでに彼女の隣に腰を下ろしていた。慣れた手つきでビールを注文し、彼女に話しかける。

「ななおさん、何か悩み事ですか？もしよかったら、聞かせてもらえませんか。」

彼女は、一瞬躊躇したが、やがてポツリ、ポツリと語り始めた。夫の転勤についてきたこの街で、知り合いもなく、ただ一人、静かに日々を過ごしていること。都会の喧騒から離れた生活は、最初は穏やかなものだったが、次第に彼女の心にぽっかりと穴を空けていったこと。

「夫は、仕事で忙しくて、あまり構ってくれないんです。」

その言葉には、寂しさが滲んでいた。健太は、その寂しさにつけ込むように、共感する言葉を紡いだ。

「わかりますよ。僕も、色々な街を転々としてきたから、寂しい気持ち、よくわかります。でも、こうして偶然出会ったのも何かの縁ですよね。」

健太は、巧妙に彼女の心の隙間に入り込んだ。彼女の独り言に、頷き、相槌を打ち、彼女の語る言葉の端々に、温かい光を当てる。それは、彼女が日常で浴びることのできない、渇望していた「承認」であり、「共感」だった。

彼女の話は尽きなかった。幼い頃の夢、人生の選択、そして、夫への複雑な思い。健太は、それらを一つ一つ丁寧に拾い上げ、彼女の心を解きほぐしていく。まるで、熟練の調教師が、怯える馬を宥めるように。

「本当に、お話聞くのが上手ですね、健太さん。」

ななおさんは、少し顔を赤らめて言った。その表情に、健太は確かな手応えを感じた。

「ななおさんみたいに、素敵な方のお話を聞くのは、僕の喜びですから。」

軽口を叩きながらも、健太の脳裏では、次の計画が着々と進行していた。このまま、彼女の孤独と寂しさを燃料にして、一気に距離を縮める。そして、計画の最終段階へと進む。

「そろそろ、場所を変えませんか？もっとゆっくり、お話したいんです。」

健太は、ななおさんにそう提案した。彼女は、少し迷った様子だったが、健太の熱意と、彼女自身の心の揺らぎが、次第に彼女の抵抗を溶かしていった。

「…はい、いいですよ。」

健太は、勝利の予感に胸を高鳴らせながら、彼女の手を取った。

一方、別の場所で、もう一人の女性が、静かな怒りを燃やしていた。

「ちえ、もういい加減にしてくれる？」

夫の、開口一番の言葉に、ちえは無言で立ち尽くした。食卓には、彼女が一人で黙々と作った夕食が並んでいた。しかし、夫は、いつものように、テレビを見ながらスマホをいじり、食器を片付けることも、食器を洗うこともせず、部屋に消えていった。

「家事なんて、女の仕事でしょ？」

先日、そう言われた言葉が、ちえの脳裏に蘇る。結婚して五年。子供はいない。夫は、家事に対して一切の協力を示さなかった。むしろ、ちえが家事をしているのが当たり前だと思っていた。

「もう、我慢できない。」

ちえは、静かに決意した。彼女は、家事ストライキを決行することにした。洗濯機を回すのをやめ、掃除機をかけるのをやめ、料理をするのもやめた。夫が一人で、その現実と向き合うしかない。

「ちえ？食い物は？」

翌朝、夫が寝ぼけた頭で言った。ちえは、無言で、夫の顔を見つめ返した。夫は、怪訝な顔をして、冷蔵庫を開けた。しかし、そこには、彼女が丁寧に作っておいた作り置きの惣菜も、冷蔵庫を綺麗に掃除した跡も、なかった。

「おい！何やってんだよ！」

夫の声が、家中に響いた。しかし、ちえは、ただ静かに、夫の怒りの言葉を聞いていた。彼女の心は、もはや、夫の怒りに反応するほど、軽やかではなかった。

「私が、どれだけ一人で頑張ってきたか、わかってる？」

ちえは、初めて、夫に言葉を発した。その声は、静かだったが、夫の耳には、雷鳴のように響いた。

「俺に、そんなこと言われたくないね。」

夫は、傲慢に言い放った。その言葉に、ちえは、もう何も感じなかった。ただ、虚しさと、諦めが、彼女の心を支配していた。

健太が連れ込んだのは、彼の「秘密の部屋」だった。そこは、生活感のない、無機質な空間だった。中央には、キングサイズのベッドが鎮座し、壁には、一見すると普通の照明器具が取り付けられている。しかし、その照明器具の内部には、精巧に仕掛けられた「○撮カメラ」が、静かに、そして確実になおさんの姿を捉えようとしていた。

健太は、ななおさんをベッドへと誘った。ななおさんは、少し緊張した面持ちだったが、健太の優しい言葉に、次第にリラックスしていく。

「大丈夫ですよ。僕が、全部受け止めますから。」

健太は、そう言いながら、ななおさんの髪にそっと触れた。ななおさんの顔に、安堵の表情が浮かぶ。健太は、その表情を見逃さなかった。

「健太さん、私…」

ななおさんが、何かを言いかけた時、健太は、彼女の言葉を遮るように、彼女の唇にキスをした。ななおさんは、一瞬抵抗する素振りを見せたが、健太の熱いキスに、次第に身を委ねていった。

部屋の隅で、カメラのレンズは、その全てを冷徹に記録していた。ななおさんの、戸惑い、そして、次第に熱を帯びていく表情。健太の、確信に満ちた、そして、どこか虚ろな表情。

ちえは、夫の怒鳴り声を聞きながら、静かに家を出た。どこへ行くのか、自分でもわからなかった。ただ、このまま、この家で、夫の世話をし続けることは、もうできないと思った。

彼女が向かったのは、偶然見かけた、古びた喫茶店だった。そこで、彼女は、一人の女性と出会う。その女性は、ちえと同じように、どこか寂しげな表情をしていた。

「あなたも…？」

女性は、ちえにそう問いかけた。ちえは、頷いた。二人の間には、言葉はなかったが、深い共感が流れていた。

「私も、夫が家事を全然手伝ってくれなくて…」

女性は、ぽつり、ぽつりと語り始めた。彼女もまた、夫の無理解に、心をすり減らしていた。

健太は、ななおさんの抵抗を、巧みに、そして大胆に、なぎ倒していった。ななおさんの、喘ぎ声が、部屋に響き渡る。それは、彼女が抱えていた孤独や、寂しさの叫びでもあったのかもしれない。健太は、それを、自らの勝利の証として、陶酔していた。

「ああ…健太さん…」

ななおさんの、恍惚とした声が、部屋を満たす。健太は、その声を聞きながら、満足げな笑みを浮かべた。彼女の心の隙間に、見事に、そして冷酷に、付け込むことができた。

「まさか…こんなことになるなんて…」

ななおさんの、呟きは、もはや、彼女自身の意志とは無関係に、漏れ出てくるものだった。彼女の、秘密の、そして、隠された「痴態」が、健太の目的通り、完膚なきまでに「収録」されていった。

喫茶店で、ちえは、初めて、自分の心の内を、誰かに打ち明けることができた。女性もまた、ちえの言葉に、深く頷き、共感を示した。二人の間には、次第に、友情のようなものが芽生え始めていた。

「一人で抱え込まなくても、いいんですよ。」

女性は、ちえにそう言った。ちえは、その言葉に、救われたような気持ちになった。

健太は、部屋を出た。ななおさんは、まだベッドの上で、茫然とした表情で横たわっていた。健太は、彼女に財布を投げつけ、一言も告げずに、部屋を後にした。彼の人生は、この一晩の「狩り」で、また一つ、色濃くなった。しかし、その内側には、満たされることのない、虚無感が、静かに横たわっていた。

街の明かりは、健太の背中を照らしていた。彼の「狩り」は、まだ終わらない。なぜなら、彼の人生そのものが、虚栄という名の灯火に、依存しているからだ。そして、その灯火は、決して消えることのない、闇の中で、ただ、燃え続けている。