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「あー、もうダメだ！」

佐藤はデスクに突っ伏し、両手で頭を抱え込んだ。目の前には、未完成の企画書。そして、その企画書に書かれた、理解不能なほど的外れな提案をしてきた後輩、田中。

「なんでこうなるんだよ…」

職場の女性社員にイライラする。それは、佐藤にとって日常茶飯事だった。別に、彼女たちが特別悪いわけではない。ただ、あの、細かな気遣いが、共感性が、時に佐藤の理性を削り取っていくのだ。

「私、そういうの、すごく気になるタイプだから」

そう言って、田中は佐藤が必死に推敲した企画書の細部を、まるで欠陥品を見つけるように指摘してくる。その声色には、悪意はないのだろう。だが、佐藤にとっては、まるで火に油を注ぐようなものだった。

（…はぁ）

深いため息をつき、佐藤はスマホを取り出した。普段なら、こんな時、好きな音楽を聴いたり、散歩に出かけたりするのだが、今日はどうにも気分が晴れない。どうしてだろう、とぼんやり考えていると、ある言葉が脳裏に浮かんだ。

「イライラした時に過激な映像を見ると気分良くなる事は科学的に証明されています！」

友人との会話で聞いた言葉だった。最初は半信半疑だったが、あの時、確かに何かしら効果があったような気もする。

（…試してみるか）

検索窓に、佐藤は「過激な映像」と打ち込んだ。いくつか候補が出てくる。どれもこれも、倫理的に問題があるものばかりだった。しかし、佐藤のイライラは、もはやそんなことを気にする余裕もなかった。

「えいっ！」

クリック。画面に映し出されたのは、想像を絶する光景だった。暴力、血、絶叫。佐藤は思わず目を背けそうになったが、なぜか、指先が画面を離さない。

「…なんだ、これ…」

映像が進むにつれて、佐藤の心臓は高鳴り始める。脳裏に焼き付くような衝撃。しかし、不思議と、イライラは薄れていくのを感じた。代わりに、胸の中に湧き上がってきたのは、ある種の興奮、いや、解放感とでも言うべき感情だった。

「…なるほどな」

納得したような、していないような。映像を閉じ、佐藤は再び企画書に目を落とした。田中へのイライラは、まだ残っていた。しかし、先ほどの映像が、まるで強烈な鎮痛剤のように、そのイライラを鈍らせていた。

その夜、佐藤は近所付き合いでイライラする出来事にも遭遇した。隣人の主婦が、佐藤の飼っている猫が彼女の庭に侵入したと、大声で文句を言ってきたのだ。

「うちの猫が、あなたの庭で何か悪いことをしましたか？」

佐藤が静かに尋ねると、主婦はさらにヒートアップした。

「いいえ、でも！そういう問題じゃなくて！うちの息子がアレルギー体質だから、猫なんて近寄ってほしくないのよ！」

息子がアレルギー体質だから、猫が近寄ってほしくない。それは、猫が何もしていないのに、一方的に非難されているようなものだった。佐藤は、この理不尽さに、またしてもイライラした。

帰宅後、佐藤は再びスマホを手に取った。あの「過激な映像」を再生する。先ほどよりも、その映像が佐藤の感情に訴えかけてくるように感じた。映像の中の狂気、絶望、そして破壊。それらが、佐藤の心の中の、抑圧された感情を代弁しているかのようだった。

（そう、こうなんだよ…）

佐藤は、映像に映し出される、目を背けたくなるような光景に、ある種の共感を覚えていた。それは、自分の抱えるストレスや不満が、形になったかのような感覚だった。

数日後、佐藤は仕事で重要な取引先を訪れることになった。相手は、威圧的で、常に高圧的な態度をとることで有名な、大企業の女性社長だった。

「佐藤さん。あなたの会社が提案しているこの計画、全く理解できませんね」

社長は、佐藤の企画書を鼻で笑うように見ながら言った。

「もっと具体的に、そして、私たちが納得できるような説明をしてください」

佐藤は、以前からこの社長の横暴さには辟易していた。しかし、今回は、それ以上に、自分自身の無力感に苛まれていた。

（ダメだ、またイライラしてきた…）

佐藤は、内心で悪態をつきながら、必死に平静を装った。社長は、佐藤の沈黙を、理解力がない証拠とばかりに、さらに言葉を続けた。

「あなたのような若造に、このビジネスの何がわかるのですか？もっと経験を積んでから出直してきなさい」

その言葉に、佐藤の堪忍袋の緒が切れた。いや、切れる寸前だった。そこで、佐藤は、ある決意を固めた。

（…もう、いいだろう）

会議室の空調が、急に寒くなったように感じた。佐藤は、内心で「過激な映像」の断片を呼び起こしていた。それは、まるで、佐藤の怒りを増幅させるための、秘密のスイッチのようだった。

「社長。おっしゃる通り、私は若造かもしれません。しかし、この計画は、私の全力を注いだものです」

佐藤の声は、わずかに震えていた。しかし、その瞳には、以前のような諦めはなかった。

「そして、社長。あなたのその態度、私の知っている、ある『人間』にそっくりです」

社長は、怪訝な顔で佐藤を見つめた。

「…どういう意味です？」

「…ある映像で見たのですが、その『人間』は、自分の地位や権力を使って、他者を屈辱し、支配することで、自らの虚栄心を満たしていました。その姿は、まるで…」

佐藤は、言葉を選びながら続けた。

「…まるで、この部屋にいる、あなたのように見えました」

会議室に、沈黙が落ちた。社長は、顔色を変え、佐藤を睨みつけた。

「無礼者！」

佐藤は、逃げるように会議室を出た。しかし、不思議と、後悔の念はなかった。むしろ、胸の内に、これまで感じたことのないような、爽快感のようなものが広がっていた。

その夜、佐藤は、あの「過激な映像」を、さらに深く探求していた。そこには、佐藤が日常で感じるストレスや不満を、遥かに超えるような、強烈な体験が待っていた。

（…これは、もう、やめられないかもしれない）

佐藤は、画面に映し出される、目を背けたくなるような映像に、目を奪われていた。それは、まるで、禁断の果実。一度味わってしまうと、もう元には戻れないような、甘く、そして危険な魅力に満ちていた。

日を追うごとに、佐藤の「過激な映像」への依存度は増していった。職場で、近所で、そして、日常のあらゆる場面で、佐藤はイライラを感じると、すぐにスマホを取り出し、あの世界に逃げ込むようになった。

「佐藤さん、大丈夫ですか？顔色が悪いですよ」

同僚のA子が心配そうに声をかけてきた。佐藤は、曖昧に笑ってごまかす。

「大丈夫だよ。ちょっと寝不足なだけ」

しかし、佐藤の心の中は、もはや、かつての「大丈夫」からは、かけ離れていた。

ある日、佐藤は、またしても、近所付き合いでトラブルに巻き込まれた。今度は、ゴミ出しのルールを巡って、隣人の男性と口論になったのだ。

「お前、ルールも守れないのか！」

男性は、佐藤の胸ぐらを掴みかかってきた。佐藤は、反射的に、あの「過激な映像」のシーンを思い出した。そこには、暴力的な衝突、そして、その結果として訪れる、ある種の解放感が描かれていた。

（…こうなるんだ）

佐藤は、男性の攻撃を、ただひたすら受け止めていた。その顔には、恐怖も、怒りも、一切浮かんでいなかった。

「おい、どうしたんだよ！反撃しろよ！」

男性は、佐藤の無反応に、苛立ちを募らせた。

「…もう、いいんです」

佐藤は、静かに言った。

「あなたは、私を殴ることで、何かを得られるのでしょう。どうぞ、好きなだけ殴ってください。私は、もう、何も感じません」

男性は、佐藤の言葉に、戸惑った様子だった。そして、そのまま、佐藤の胸ぐらを離し、踵を返した。

佐藤は、その場に立ち尽くしていた。心の中は、不思議なほど、静かだった。イライラも、怒りも、恐怖も、何もかもが、あの「過激な映像」によって、洗い流されてしまったかのようだった。

しかし、その静けさは、同時に、佐藤から、人間らしい感情も奪い去っていた。

（…これが、精神安定の代償か）

佐藤は、悟ったような、諦めたような、複雑な表情で、空を見上げた。

そして、数週間後、佐藤は、前触れもなく、会社を辞めた。上司に辞表を叩きつけ、その足で向かったのは、あの「過激な映像」を専門とする、ある組織だった。

「…私を、受け入れてください」

佐藤は、そこにいた、組織のリーダーらしき男に、そう告げた。

男は、佐藤の顔をじっと見つめ、不気味な笑みを浮かべた。

「…君のような人間を、待っていたよ」

佐藤は、その言葉に、安堵のような、そして、恐怖のような、相反する感情を抱いた。

それから、佐藤の人生は、さらに加速していく。職場の女性社員、近所付き合い、そして、理不尽な客。佐藤のイライラを刺激する対象は、尽きなかった。しかし、佐藤は、もう、それらに反応しなかった。

ただ、ひたすらに、「過激な映像」の世界に没頭した。そこには、佐藤が求める、強烈な体験と、そして、ある種の「秩序」があった。それは、佐藤が現実世界で、決して見つけることのできなかった、歪んだ、しかし、確固たる秩序だった。

やがて、佐藤は、その組織の中で、ある「役割」を担うようになった。それは、佐藤が「過激な映像」を、さらに「過激」にするための、特殊な任務だった。

「佐藤、君の力が必要だ」

組織のリーダーは、佐藤にそう告げた。

佐藤は、その言葉に、迷うことなく従った。そこには、もはや、かつての佐藤は、微塵も残っていなかった。

「全員抵抗むなしく最低の結末」

佐藤が、ある日、組織のメンバーにそう告げた時、その顔には、一切の感情が浮かんでいなかった。それは、まるで、プログラムされた機械の言葉のように、冷たく、そして、無機質だった。

佐藤は、もはや、イライラすることもなく、怒ることもなく、ただ、与えられた「役割」を、忠実にこなすだけだった。そして、その「役割」が、佐藤にとって、唯一の「精神安定剤」となっていた。

それは、科学的に証明された、ある種の「気分転換」だったのかもしれない。しかし、その代償として、佐藤は、人間としての感情、そして、人間としての「心」を、完全に失ってしまったのだった。