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## 茜色の航海図

陽光は、窓ガラスを通してリビングに穏やかに降り注いでいた。障子越しの柔らかな光が、磨き込まれた床に模様を描き出す。佐藤健一、65歳。役所勤めを定年退職して、今日でちょうど半年になる。隣のソファでは、妻の陽子、63歳が、編みかけのマフラーを指先で操っていた。その横顔にも、穏やかな時の流れが刻み込まれている。

「健一さん、そろそろお茶にしましょうか」

陽子の声に、健一はゆっくりと顔を上げた。長年連れ添った妻の声は、いつも心地よい響きがあった。しかし、最近は、その心地よさの中に、ほんの少しの空虚さが混じるようになった気がする。

「ああ、ありがとう。そうだな」

健一は立ち上がり、キッチンへと向かった。湯を沸かし、二人分の湯呑みに緑茶を注ぐ。茶葉の芳しい香りが、部屋に広がる。かつては、この時間もまた、忙しい日々の中に埋もれていた。仕事から帰宅し、子供たちの世話に追われる陽子と、食事をしながら交わす他愛のない会話。それが、いつしか丁寧な儀式となっていた。

「ねえ、健一さん」

湯呑みを運んできた陽子が、ふと口を開いた。

「この前、テレビで団塊世代の定年後の生活について特集してたんだけど、なんだか私達とは全然違う世界みたいだったわ」

「ほう、どんなことだ？」

健一は向かい合って座り、湯呑みを両手で包み込んだ。

「なんていうか…もっとアクティブで、趣味に没頭したり、世界中を旅したり…もちろん、そういうのも素敵だとは思うんだけど…」

陽子は言葉を選びながら、続けた。

「でも、なんか、ちょっと、焦るっていうか…私達、これからどうすればいいのかしらね」

その言葉に、健一は思わず目を見開いた。焦り。それは、健一自身も感じていた漠然とした不安だった。長年、会社という組織に属し、社会的な役割を担ってきた。その役割がなくなった今、自分たちが何者であるのか、見失ってしまったような感覚。

「まあ、人それぞれだろうさ」

健一は努めて平静を装ったが、心の中では陽子の言葉が波紋のように広がっていた。「あの頃の性生活を取り戻すには」という言葉が、ふと頭をよぎった。それは、雑誌の特集記事の見出しだっただろうか。それとも、テレビの番組名だったか。曖昧な記憶の断片が、胸の奥でざわめいた。

「そうよね…でも、なんか、もっと、こう、夫婦で楽しめること、ないのかしらね」

陽子は、編みかけのマフラーを膝の上に置いた。その瞳に、かすかな戸惑いと、そして、ほんの少しの期待の色が浮かんでいるのを見た。

「そうだな…」

健一は、言いたいことがあったが、言葉にならなかった。かつて、二人で熱く燃え上がった日々。それは、遠い過去の記憶のように霞んでいた。子供たちが巣立ち、二人きりの生活になった時、その距離感はさらに開いていくように感じられた。互いを思いやる気持ちはあった。しかし、その思いやりは、いつしか遠慮へと姿を変え、直接的な感情のやり取りを鈍らせていった。

「そうだ、来月、数十年ぶりに旅行に行こうか」

健一は、衝動的に口にした。

「旅行？どこへ？」

陽子の顔が、ぱっと明るくなった。

「昔、二人で行った、あの海辺の町はどうだろう。あの時、君が買えなかった、あの青いワンピース、まだ売っているかもしれない」

健一は、陽子がかつて、その町で一目惚れしたワンピースのことを思い出した。結局、値段に躊躇して買わなかったが、その時の陽子の落胆した顔を、健一は鮮明に覚えていた。

「あら、いいわね！あの町、とっても素敵だったもの。それに、あの頃の…」

陽子は、そこで言葉を区切った。しかし、健一には分かった。陽子もまた、「あの頃」に思いを馳せているのだと。

旅行の計画は、意外にもスムーズに進んだ。数十年ぶりの旅行。それは、単なる観光旅行ではなかった。それは、二人が失いかけた「あの頃」を取り戻すための、冒険のようなものだった。

港町は、健一の記憶にあるよりも、少しだけ変わっていた。しかし、潮の香りと、カモメの鳴き声は、あの頃と何ら変わらない。二人は、人通りの少ない小道を歩いた。陽子は、期待に胸を膨らませて、店のウィンドウを覗き込んでいた。

「あった！健一さん、見て！あのワンピースよ！」

陽子の声が弾んだ。ショーウィンドウに飾られた、鮮やかな青いワンピース。それは、陽子の肌の色を美しく引き立て、その姿は、まるで初々しい乙女のようだった。

「似合うだろうな」

健一は、素直にそう思った。

「でも、私…この歳で、こんな派手なワンピース、着こなせるかしら…」

陽子の声に、再びためらいが滲む。

「何言ってるんだ。君に、これほど似合う服はないだろう。それに、あの頃、君はこれを着て、俺の隣を歩くことを夢見ていたんだ」

健一は、陽子の手をそっと握った。その手は、以前よりも少しだけ荒れていた。しかし、その温もりは、健一にとって何よりも確かなものだった。

ワンピースを身につけた陽子は、本当に美しかった。海風に髪をなびかせ、健一の隣を歩く姿は、かつて彼が愛した、あの頃の陽子そのものだった。

夕食は、海辺のレストランで取った。窓の外には、茜色に染まる空と、穏やかな波が広がっていた。

「健一さん、あの時、このワンピースを買わなかったこと、ずっと心残りだったの」

陽子は、グラスを傾けながら、静かに語った。

「でも、今日、こうして着ることができて…なんだか、あの頃の私に戻れたみたい」

「君は、いつも綺麗だよ、陽子」

健一は、陽子の瞳をじっと見つめた。その瞳の奥に、かつて彼を魅了した、情熱の炎が、再び灯っているのを見た気がした。

「あの頃の性生活…なんて、雑誌は言うけれど、私達に必要なのは、そんなことじゃないのかもね」

陽子は、微笑んだ。

「そうだな。必要なのは、お互いを思いやる気持ちと、そして、こうして、一緒に新しい一歩を踏み出す勇気なのかもしれない」

健一は、陽子の手に、自分の手を重ねた。その手は、以前よりも確かに、温かく、力強かった。

夜、ホテルの一室。窓の外は、満天の星空が広がっていた。

「健一さん、なんだか、心が軽くなったみたい」

陽子は、健一の胸に顔を埋めた。

「俺もだよ、陽子」

健一は、陽子の髪を優しく撫でた。長年、お互いに遠慮して、抑えつけていた感情が、今、静かに解き放たれていくのを感じた。それは、かつての激しい情熱とは違う、穏やかで、しかし、確かな温もりだった。

「ねえ、健一さん」

陽子が、顔を上げた。その瞳は、星空のように輝いていた。

「これから、私達、どんな風に生きていくんだろうね」

健一は、陽子の頬に、そっとキスをした。

「茜色に染まる空のように、穏やかで、そして、温かい日々を、君と一緒に、ゆっくりと航海していこう」

二人の新しい人生は、まだ始まったばかりだった。団塊世代という括りも、定年という節目も、もはや色褪せた言葉だった。彼らにとって、これからの日々は、未知なる海原を、愛する人と共に、ゆっくりと、しかし、力強く進んでいく、茜色の航海だった。そして、その航海は、きっと、彼らが想像するよりも、ずっと豊かで、美しいものになるだろう。