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## 酔いどれ月夜の帳

「すみません、若い新入社員とかじゃなくて…」

この言葉が、私の日常を根底から覆すことになるなんて、あの夜のことは夢だったとさえ思えるほどだ。しかし、現実は残酷で、そして甘美でもあった。

それは、梅雨の気配を孕んだ湿った空気が、疲労感を増幅させる金曜日の夜だった。部署の慰安旅行、という名目のただの飲み会。私は、入社３年目の、まだどこか頼りなく、しかし意欲だけは空回りしている山田花子。隣には、いつも冷静沈着で、部下からの信頼も厚い、５０歳を目前にした田中課長。課長は、数年前に奥様を亡くされ、以来、一人暮らしだと聞いている。その誠実そうな佇まいと、時折見せる寂しげな表情に、何度か同情のような、あるいは尊敬のような、複雑な感情を抱いたことはあった。

「花子さん、もう一杯どうですか？」

課長の声は、いつものように穏やかだった。しかし、今日の私は、普段とは少し違った。昇進試験を目前に控えたプレッシャー、そして、最近ちょっとうまくいっていない彼氏への不満。それらがグラスの中の日本酒とともに、私の中に渦巻いていた。

「いえ、もう十分です。終電、大丈夫ですか？」

私は、酔いが回るのを必死に抑えながら、時計を見た。まずい、もう０時を回っている。

「ああ、もうそんな時間か。私も、そろそろ帰らないと。」

課長も立ち上がった。しかし、外はすでに冷たい雨が降り始めていた。

「あ、傘、忘れてきちゃった…」

私が呟くと、課長は私の様子をじっと見つめた。その視線に、いつもとは違う熱が宿っているような気がした。

「花子さん、顔色が悪いですよ。大丈夫ですか？」

「ちょっと、飲みすぎちゃったみたいで…」

私は、ふらつきながら、課長の言葉に甘えるように答えた。この言葉が、すべてを決定づけることになるなんて、その時の私は知る由もなかった。

「無理せず、私の家で休んでいきませんか？すぐそこですから。」

課長の自宅は、会社の近くで、徒歩５分ほどの場所にある。普段なら、絶対に断るべき状況だった。しかし、酔いと、そして見えない糸に引かれるように、私は頷いてしまった。

「…ありがとうございます。お手数をおかけします。」

冷たい雨の中、課長の傘に二人で寄り添って歩いた。課長の体温が、雨に濡れた私の肩越しに伝わってくる。それは、心地よい、しかしどこか危険な温もりだった。

課長の部屋は、整然としていて、人の気配が希薄だった。奥様を亡くされた後、一人で暮らしているという言葉が、そのまま部屋の雰囲気に表れているかのようだった。

「どうぞ、座ってください。温かいお茶でも淹れましょうか？」

「いえ、大丈夫です。少し休んだら、帰りますので。」

私は、ソファに腰を下ろし、雨音を聞いていた。課長は、私を気遣うように、静かに隣に座った。

「雨、ひどくなりましたね。」

「ええ、そうですね。」

会話は途切れがちだった。雨音だけが、部屋に響いていた。私は、酔いのせいか、徐々に瞼が重くなっていくのを感じた。

「花子さん、本当に顔色が悪い。無理しないで、少し横になりませんか？」

課長の声は、さらに優しく響いた。そして、私を寝室へと案内してくれた。

「すみません、本当に…」

「いいんです。疲れているんでしょう。ゆっくり休んでください。」

課長は、私に毛布をかけ、部屋の明かりを消した。部屋は、雨音と、課長の静かな呼吸音だけが響く、暗闇に包まれた。私は、すぐに眠りに落ちた。

しかし、夢の中に、課長が現れた。いや、夢ではなかったのかもしれない。

いつの間にか、私は課長の隣で眠っていた。いつ、どうやって、こんなことになったのか、記憶が曖昧だった。ただ、肌に触れる温もりは、課長の体温だった。そして、その体温は、私を包み込むように、次第に熱を帯びていった。

課長の寝息が、私の耳元で聞こえる。その息遣いが、私の中に、言いようのない感覚を呼び覚ました。それは、彼氏への不満や、仕事のプレッシャーとは全く違う、もっと原始的な、しかし抗いがたい衝動だった。

「…課長…」

私の声は、掠れていた。課長は、ゆっくりと目を開けた。その瞳に、いつもの誠実さとは異なる、欲望の色が宿っているのが見えた。

「花子さん…」

課長の手が、私の頬に触れた。その手は、震えているように感じた。

「大丈夫ですか？」

課長の言葉は、心配の色を帯びていた。しかし、その手は、私の髪を優しく梳き、そのまま首筋へと滑っていった。

「…課長…」

私は、課長の胸に顔を埋めた。課長は、私の背中に手を回し、強く抱きしめた。その力強さに、私の心臓が激しく鼓動し始めた。

「…花子さん…」

課長の唇が、私の髪に触れた。そして、ゆっくりと、私の唇へと近づいてきた。

「…ダメです…」

私は、か細い声で抵抗した。しかし、その抵抗は、火に油を注ぐようなものだった。課長は、私の意思とは関係なく、私の唇を奪った。

そのキスは、情熱的で、そして切なかった。普段の課長からは想像もできないような、激しいキスだった。私の体は、課長のキスに呼応するように、熱を帯びていった。

課長の指が、私のシャツのボタンを外し始めた。私は、そのまま、課長の胸に身を委ねた。

「…課長…」

私の声は、喘ぎに変わっていた。課長は、私の体のラインをなぞりながら、ゆっくりと衣服を剥いでいった。

そして、私と課長は、裸のまま、肌を重ね合った。課長の経験豊富な手つきに、私は、翻弄されながらも、快感に身を任せた。

「…っ…！」

課長の体が、私の内側へと滑り込んできた。それは、初めての経験でもあり、そして、忘れていた何かを呼び覚ますような、衝撃的な瞬間だった。

「…課長…だめ…！」

私は、必死に抵抗した。しかし、課長は、私の言葉を聞き流すように、さらに深く、私の中へと突き進んできた。

「…っ…はぁ…はぁ…」

課長の喘ぎ声が、部屋に響き渡る。私の体は、課長の動きに合わせて、激しく波打っていた。

「…っ！…はぁ…！」

そして、課長は、私の中で、熱いものを奔流させた。それは、私の中に、これまで感じたことのない、強烈な快感をもたらした。

「…っ…！」

私は、そのまま、腰を震わせ、声を上げた。雨音に紛れるように、私の叫び声が、部屋に響いた。

課長は、私の体を抱きしめたまま、静かに呼吸を整えていた。私も、課長の胸に顔を埋め、その鼓動を聞いていた。

「…すみません…」

課長が、絞り出すような声で言った。

「…いいんです…」

私も、掠れた声で答えた。

この夜、何が起こったのか、私にはまだ整理がつかなかった。しかし、一つだけ確かなことは、私の日常は、もう元には戻らないということだった。

翌朝、私は、課長に送ってもらった。雨は止み、青空が覗いていた。

「花子さん、昨夜のことは、忘れてください。」

課長は、いつものように、誠実そうな顔で言った。

「…はい。」

私は、俯いて答えた。しかし、心の奥底では、昨夜の課長の熱い視線と、そして、その感触が、鮮明に焼き付いていた。

その後、私たちは、普段通りに仕事をした。しかし、あの夜の出来事は、私たちの間に、見えない壁を作り出していた。そして、時折、課長の視線が私に絡みつくたびに、私の心臓は、あの夜の興奮を思い出し、高鳴った。

ある日、課長は、私を呼び出した。

「花子さん、少し話したいことがあります。」

課長は、いつもより真剣な表情で、私に話しかけた。

「…はい。」

私は、緊張しながら、課長の話を聞いた。

「…私は、この度、左遷されることになりました。」

課長の言葉に、私は息を飲んだ。

「…なぜですか…？」

「…色々、あってね。君とのことも、関係がないわけではない。」

課長の言葉は、私の胸に重くのしかかった。

「…私…」

「…花子さん、君には、まっすぐで、清らかな道を歩んでほしい。」

課長は、そう言って、私の手を握った。その手は、昨夜のように震えてはいなかった。しかし、その目には、確かな情熱が宿っていた。

「…課長…」

私の声は、震えていた。

「…君は、僕の、一番の…」

課長の言葉が、途切れた。そして、私の唇に、そっと触れた。

「…これで、最後だ。」

課長の言葉に、私は、涙が溢れるのを感じた。

この日、私たちは、最後の夜を過ごした。それは、昨夜とは違う、切なく、そして愛おしい時間だった。

翌日、課長は、会社に来なかった。そして、二度と、私の前に現れることはなかった。

私は、一人残された。しかし、私の心の中には、課長との、あの酔いどれ月夜の帳の記憶が、鮮明に残っていた。それは、私にとって、罪悪感であり、そして、忘れることのできない、激しい愛の証だった。

あの夜の出来事は、私に何を教えてくれたのだろうか。それは、きっと、失われたものと、そして、手に入れたものの、両方だった。そして、私は、課長から受け取った、あの情熱を胸に、これからも生きていくのだろう。たとえ、それが、禁断の果実であっても。