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## 熟成の甘味

梅雨の湿気が重くのしかかる東京の片隅、古びたアパートの一室で、私は古本屋を営んでいた。店名は「時雨堂」。時雨のように移ろいゆく季節、そして人々の記憶を、静かに、しかし確かに留めておく場所にしたかった。しかし、現実はそう甘くはなかった。客足はまばらで、埃をかぶった背表紙が、私の焦燥感を映し出しているようだった。

そんなある日、一人の女性が店に現れた。年齢は四十代後半だろうか。ふんわりとしたカーキ色のブラウスに、ゆったりとしたロングスカート。そこには、流行の最先端を行くような洗練された装いとは無縁の、ゆとりと温かみがあった。そして何より、その女性からは、独特の「熟成」したような雰囲気が漂っていた。

「あの…」

女性の声は、落ち着いていて、それでいてどこか懐かしい響きを持っていた。彼女はゆっくりと店内を見回し、一冊の本に手を伸ばした。それは、私の祖父が遺した古い詩集だった。

「この本、探していたんです」

女性は、私に微笑みかけた。その微笑みは、まるで梅雨の晴れ間に差し込む陽光のように、私の心を温かく照らした。

「それは…ありがとうございます。祖父が大切にしていた本です」

私は、自然と口角が上がっているのを感じた。長らく、誰かに喜んでもらえるという感覚から遠ざかっていたからだ。

「本当に、素敵な本ですね。文字の配置、紙の質感…どれも、今の本にはない温かみがあります」

彼女は、詩集を優しく撫でるように触れていた。その指先は、滑らかでありながら、ほんのわずかに厚みがあった。

「そう言っていただけると、嬉しいです。この店も、もう時代遅れなのかもしれませんが…」

私の弱音が、不意に漏れた。

「いいえ、そんなことはありません。むしろ、こういう時代だからこそ、こういう場所が必要なんだと思います」

彼女は、真剣な表情で私を見た。その瞳は、澄んでいて、しかし深い悲しみを湛えているようにも見えた。

「…どうして、この本を？」

私の問いに、彼女は少し間を置いてから、ゆっくりと語り始めた。

「昔、私がまだ幼い頃…母がよく、この詩集を読んでくれたんです。母は、声も、姿も、今でいう『綺麗』とは少し違いました。少しふくよかで、声は低め。でも、その母の声で聞く詩は、いつも私の心を優しく包んでくれました。特に、母が朗読する時の、あの…なんというか、声の揺らぎというか、息遣いというか…それが、とても心地よかったんです」

彼女の言葉は、私の胸に深く染み渡った。母性、という言葉が頭をよぎった。それは、性的な魅力を超えた、もっと根源的な、包み込むような温かさのことだ。

「母は、若くして亡くなったんです。だから、母の面影を、この詩集に探してしまうというか…」

彼女の瞳に、うっすらと涙が浮かんだ。私は、何も言えず、ただ彼女の言葉に耳を傾けていた。

「あの…もし、よろしければ、お店のこと、もう少しお話ししてもらえませんか？」

彼女の予想外の言葉に、私は驚いた。

「え？私でよろしければ…」

「私は、料理教室を主宰しているんです。でも、最近、生徒さんたちに『もっと、こう、温かいもの、ほっとするものを』と言われることが多くて。先生のこのお店のように、人に寄り添うような、そんな温かさを、料理でも表現したいな、と」

彼女は、そう言いながら、ふと、自身の体型に目を落とした。そして、少し照れくさそうに微笑んだ。

「私自身、あまり…なんていうか、スレンダーな方ではないんです。むしろ、昔から、こう…ぽっちゃりというか。でも、この年になって、それが悪くないと思えるようになってきたんです。この、お腹周りの、この…『無駄肉』とでも言うのかしら。これが、なんだか、とても愛おしく思えてきて」

彼女は、自分の腹部にそっと手を当てた。その仕草は、羞恥心と、そして何よりも、自分自身への肯定感に満ちていた。

「年を重ねるごとに、体は変わりますよね。引き締まっていく部分もあれば、逆に、柔らかくなっていく部分もある。でも、その柔らかさの中にこそ、人生の厚みとか、経験とか、そういうものが滲み出てくるんじゃないかって、最近思うようになったんです。まるで、熟した果実のように」

彼女の言葉は、私の中に眠っていた何かに火をつけた。私もまた、この店という「熟した」空間を、ただ埃をかぶったものとして片付けようとしていたのかもしれない。

「あの…もしよろしければ、一度、私の料理教室に遊びに来ていただけませんか？生徒さんたちも、きっと、先生のお話に興味を持つと思いますよ」

彼女は、私に、名刺を差し出した。そこには「料理教室　温味（ぬくみ）　主宰　佐々木　雅子」と書かれていた。

「温味…温かい味、ですか」

「ええ。温かい味、そして、温かい心、という意味を込めて」

私は、その名刺を、まるで宝物のように手に取った。

数日後、私は佐々木さんの料理教室を訪ねた。そこは、私の想像していたよりもずっと明るく、開放的な空間だった。そして、佐々木さんの料理は、まさに彼女の言葉通り、「温かい」ものだった。

「今日は、豚の角煮を作ります。ポイントは、じっくり煮込むこと。そして、隠し味に、少しのお味噌と、そして…」

佐々木さんは、そう言いながら、私に顔を向けた。その表情は、先日の詩集を手にしていた時よりも、ずっと生き生きとしていた。

「…そして、愛情をたっぷり込めること、です」

彼女は、そう言って、大きな鍋に、豚肉を優しく沈めた。その腕は、しなやかで、しかし確かな力強さを秘めていた。そして、その脇腹が、ブラウスの隙間から、ほんの少し覗いていた。そこには、しなやかな曲線を描く、柔らかな肌が見えた。

「先生、どうぞ、こちらに」

佐々木さんは、私にエプロンを渡してくれた。私は、そのエプロンを身に纏い、佐々木さんの隣に立った。

「あの…先生の、この…」

私は、意を決して、言葉を続けた。

「その…お腹周りというか、その…」

佐々木さんは、私の言葉に、一瞬、きょとんとした顔をしたが、すぐに理解したようだった。そして、ふっと、噴き出した。

「あはは！もう、先生ったら！でも、正直なところ、私も、この年になって、自分のお腹が、なんだか愛おしいなって思うようになったんです。昔は、もう少しスレンダーだったんですけどね。でも、この、たぷたぷ、ぷよぷよした感じが、なんだか、こう…安心するというか、包み込まれるような感覚があるんです」

佐々木さんは、そう言って、自分の腹部を、両手で優しく撫でた。その指先が、衣越しに、肌の柔らかさを伝えてくるようだった。

「私、昔から、痩せている人よりも、少しふくよかな人の方が、なんていうか…母性を感じるというか、安心するんです。あの、お母さんのお腹に抱きついた時の、あの安心感に似ているというか…」

佐々木さんは、私の言葉に、大きく頷いた。

「そうなんです！まさに、それなんです！この、贅肉というか、無駄肉というか…この、柔らかい部分に顔を埋めると、なぜか、心が安らぐんですよね。昔は、それが『恥ずかしい』ことだと思っていましたけど、この年になって、それが『心地よい』ことなんだって、気づいたんです」

彼女は、そう言って、私の顔をじっと見つめた。その瞳は、まっすぐで、しかし、どこか甘く、私を誘い込むような色を帯びていた。

「先生も、きっと、そういう感覚、お持ちでしょう？」

彼女の言葉に、私は、ドキリとした。確かに、私も、佐々木さんのような、包み込むような温かさに、無意識のうちに惹かれていたのかもしれない。それは、単なる性欲とは違う、もっと根源的な、人としての温もりを求める気持ちだった。

「…はい。そうかもしれません」

私の返事に、佐々木さんは、満足そうに微笑んだ。

「この、熟したボディ…そう呼ぶ人もいますけど、私は、これが、人生の経験を積み重ねた証だと思うんです。だから、この、柔らかな肌を、そして、この、豊かさを、もっと世の中に伝えていきたい。だって、この、たぷたぷ、ぷよぷよの熟したボディにこそ、本当の温かさや、母性、そして、何よりも、人を安心させる力が宿っているんですから」

佐々木さんの言葉は、私の中の、何かが決壊したような感覚をもたらした。彼女の、人生の酸いも甘いも噛み分けたような、その豊かさに、私は、抗いがたい魅力を感じていた。

「先生、この豚の角煮、もうすぐできますよ。一口、どうですか？」

佐々木さんは、そう言って、湯気の立つ鍋を指差した。その指先は、しっとりと艶やかで、その指の付け根には、わずかに、むっちりとした肉感が見て取れた。

私は、佐々木さんの隣に立ち、その、湯気と共に立ち昇る、豚の角煮の芳醇な香りを吸い込んだ。そして、その香りは、佐々木さんから放たれる、甘く、濃厚な、熟成されたような香りと混ざり合い、私の五感を、深く、深く満たしていった。

「いただきます」

私は、そう言って、フォークで角煮をすくった。それは、口の中で、とろけるように広がった。そして、その味は、佐々木さんの、あの、温かく、包み込むような、そして、どこか甘く、濃厚な、熟成されたような魅力と、重なり合うように、私の舌を、そして、心を、満たしていった。

この「温味」という料理教室は、単に料理を学ぶ場所ではない。それは、人生の温かさ、そして、人間が本来持っている、包み込むような優しさ、それを、五感を通して再認識する場所なのだと、私は、この時、確信した。そして、佐々木雅子という女性は、まさに、その「温味」そのものであった。彼女の、熟成されたボディに宿る、温かさ、母性、そして、人を惹きつける濃厚な魅力。それは、確かに、世の中の多くの人が、見過ごしてしまっている、いや、見ようとしていない、しかし、確かに存在する、かけがえのない宝物だった。私は、これからも、この「時雨堂」で、そして、この「温味」で、その宝物を、静かに、しかし、確かに、見つけ続けていくだろう。