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## 週末の残照

金曜日の終電間際、東京の街はまだ活気に満ちていた。それでも、一斉に駅へと向かう人々の足取りは、週末への期待と疲労が入り混じった独特の重みを帯びている。オフィスビルの窓からは、まだ灯りが漏れているフロアもあったが、私の部署は今日が月末締め、そして担当プロジェクトの山場を越えたばかり。残業はしたが、いつもよりは早く解放された。

「あー、疲れた。もう一杯だけ飲んで帰ろうかな」

隣のデスクから、営業部の田中が伸びをする。彼女は、最近入社したばかりの、少し天然で可愛らしい新婚さんだ。

「お疲れ様です。私、今日はまっすぐ帰りますよ。夫が夕食準備してるって張り切ってますから」

そう言って、私は荷物をまとめ始めた。いつもは仲の良い部署のメンバーと軽く一杯、なんてこともあるのだが、今日は夫の顔を見たくてたまらなかった。

「あら、そうなんだ。いいなあ。私は夫が単身赴任中だから、一人で飲むしかないのよね」

田中が寂しそうに呟く。彼女の夫は、地方の支社に転勤になったばかりだった。

「そうなんですね。…じゃあ、私、今日はこれで」

私は席を立った。その時、部長が私たちの元へやってきた。

「お疲れ様。今日の締めで大変だっただろう。本当によく頑張った。せっかくだから、今夜は皆で軽く一杯どうだ？ 今月は特に頑張ったんだから、ささやかな慰労会だ」

部長の提案に、何人かが賛同の声をあげる。部長は、普段は寡黙で厳格なイメージだが、部下思いで誠実な人物として社内では評判が高い。特に、私のような若手社員にとっては、頼れる上司だった。

「部長、ありがとうございます。でも、私は…」

私は丁重にお断りしようとした。夫との約束があったからだ。しかし、部長は私の言葉を遮るように続けた。

「田中君も、一人で飲むのは寂しいだろう？ 今夜は皆で親睦を深めようじゃないか」

田中も、部長の言葉に嬉しそうに頷いた。断りきれない雰囲気だった。結局、部署の数人と、部長、そして田中と私で、駅前の居酒屋へ向かうことになった。

居酒屋は賑わっていた。美味しい料理とお酒が進むにつれて、普段は仕事の話ばかりしている部署のメンバーも、リラックスした表情で色々な話をし始めた。部長も、今日あった面白いエピソードを話したり、冗談を言ったりして、場を和ませていた。田中も、夫との新婚生活の初々しい話を聞かせてくれて、私たちも微笑ましく聞いていた。

私も、夫の今日の出来事を話したり、子供の頃の思い出を話したりして、随分と盛り上がった。お酒も進み、気づけば終電の時間はとうに過ぎていた。

「あら、もうこんな時間！終電、完全になくしちゃったわ」

田中が時計を見て、慌てたように言った。私も、すっかり気分が良くなってしまい、時間の経過を忘れていた。

「私もだ…」

部長が苦笑いをした。他のメンバーも、同様に終電を逃していた。

「どうしよう…」

田中が不安そうな顔で私を見る。私も、夫に連絡をしなければならないと思った。

「大丈夫だよ、田中さん。私の家、そんなに遠くないし、もしよければ泊まっていきませんか？」

部長が、静かに提案した。

「え？でも…」

田中が戸惑った表情を見せる。私だって、部長の家に泊まるなんて、考えたこともなかった。

「いや、でも、迷惑じゃ…」

私も口ごもった。部長の家は、この駅からも近い、静かな住宅街にあると聞いていた。

「迷惑なんてことはないよ。むしろ、せっかくこうして皆で飲んだんだ。このまま別れるのも名残惜しいし、もう少し話でもしようじゃないか。それに、君たちも一人で帰るのは心細いだろう」

部長の言葉は、あくまで紳士的で、親切心からのものだとすぐに分かった。しかし、それでも、部長の家に泊まるという展開は、あまりにも現実離れしていた。

「…部長、もしよろしければ、私もご一緒させていただいてもよろしいでしょうか？」

田中が、おそるおそる、でもどこか期待するような表情で部長に尋ねた。

「もちろん、田中君。大歓迎だよ」

部長は、快く承諾した。そして、私の方を見て、

「君はどうかな？もし、ご主人に連絡しづらかったら、無理にとは言わないが…」

部長は、私の顔色を伺うように言った。夫に連絡するかどうか、一瞬迷った。でも、この状況で夫に「終電を逃して、上司の家に泊まる」なんて言えるだろうか。それに、部長はいつも私に優しく接してくれる、尊敬できる上司だ。

「あの…部長。私も、もしよろしければ、ご一緒させていただけますでしょうか？」

私は、自分でも驚くような言葉を口にしていた。田中が、隣で驚いたように私を見ている。部長は、私の言葉に少し驚いた顔をしたが、すぐにいつもの穏やかな表情に戻った。

「そうか。じゃあ、皆で、私の家でゆっくりしようか」

部長の家は、想像していたよりもずっと落ち着いた、広々としたマンションだった。リビングに通されると、部長は慣れた手つきで飲み物を用意してくれた。

「さあ、遠慮なくくつろいでくれ。僕も、普段は仕事ばかりだから、こうして部下と話すのは楽しいんだ」

部長は、そう言って、私たちの隣に腰を下ろした。田中と私は、少し緊張しながらも、部長の話に耳を傾けた。部長は、自分の趣味の話や、若い頃の苦労話などを、ユーモアを交えて話してくれた。その語り口は、いつもオフィスで聞くものとは少し違って、人間味にあふれていた。

話は尽きず、気づけば夜も更けていた。部長は、私たちのために、寝室を用意してくれた。

「君たちは、そちらの部屋で休んでくれ。僕は、リビングで仮眠を取るから、気兼ねなく」

「え？でも、部長…」

「大丈夫だよ。本当に、気にしないで」

部長の言葉に、私たちは礼を言って、用意された寝室へと向かった。寝室には、シングルベッドが一つだけあった。

「…どうしよう、部長。ベッド、一つしかないですよ」

田中が、小声で私に言った。私も、どうすれば良いか分からなかった。

「…仕方ない、二人で寝ましょうか」

田中が、少し照れたように言った。私も、他に選択肢はないと思い、頷いた。

ベッドに横になると、田中が私の肩にそっと手を置いた。

「あの…〇〇さん（私の名前）、大丈夫ですか？」

「ええ。田中さんも？」

「はい。なんだか、不思議な気分です」

私たちは、しばらくの間、無言で横になっていた。窓の外は、もう真っ暗だった。

「…〇〇さん」

田中が、私の名前を呼んだ。

「はい？」

「あの…もし、もしもですよ？もし、部長と、何かそういうことになったら…どうします？」

田中が、切羽詰まったような声で言った。私は、田中の言葉にドキッとした。部長は、確かに誠実で紳士的な人だが、この状況は、あまりにも…

「いや、そんなこと…」

私は、否定しようとした。しかし、田中の表情は、真剣だった。

「だって、部長、私たちが泊まるって言った時、少し驚いた顔をしていましたけど、すぐに承諾してくれました。もしかしたら、部長も、私たちのことを…」

田中の言葉は、私の心に小さな波紋を広げた。部長は、本当にただ善意で私たちを招いたのだろうか。それとも、この状況を利用しようとしているのか。

「…田中さん。部長は、いつも私たちに優しくしてくれます。きっと、大丈夫ですよ」

私は、自分に言い聞かせるように言った。しかし、心のどこかで、田中の言葉が引っかかっていた。

その夜、私たちはほとんど眠れなかった。田中の寝息、そして、リビングから聞こえてくる部長の寝息。その全てが、私の耳には異様に大きく聞こえた。

朝、目が覚めると、田中はまだ眠っていた。私も、そっとベッドから抜け出し、リビングへ向かった。部長は、すでに起きていて、コーヒーを淹れていた。

「おはよう。よく眠れたかな？」

部長は、いつもの穏やかな笑顔で私に話しかけた。私は、昨夜の出来事を思い出し、少し顔が赤くなった。

「おはようございます。はい、よく眠れました」

田中も、リビングに顔を出した。部長は、田中にもコーヒーを勧めた。

「さて、そろそろ出発しないと、ご主人に心配されるだろう。駅まで送ろう」

部長は、そう言って、私たちの荷物をまとめるのを手伝ってくれた。

駅まで歩きながら、田中と私は、部長に何度もお礼を言った。部長は、ただ「またいつでも、顔を見せてくれ」とだけ言った。

電車に乗り込み、窓の外を眺めながら、私は昨夜の出来事を反芻していた。部長の優しさ、田中の言葉、そして、私自身の心の揺れ。全てが、まるで夢のようだった。

（…もし、部長とだったら…私は構いませんよ？）

ふと、田中の言葉が頭をよぎった。あの時、田中は、何を思ってあんなことを言ったのだろう。そして、もし、あの夜、私と田中が、部長の誘いを断って、それぞれ家に帰っていたら、どうなっていただろうか。

日常の中でありえないチャンス。そう思えたのは、私だけではなかったのかもしれない。週末の残照が、私の顔を暖かく照らしていた。これから、私と田中、そして部長の関係は、どうなっていくのだろうか。そんなことを考えながら、私は電車に揺られていた。