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## 陽炎の宴

「寄ってらっしゃい！見てらっしゃい！酔わせてワッショイ社員旅行！」

色とりどりの提灯が、夜風に揺れていた。古びた旅館の庭園に響き渡る、賑やかな掛け声。それは、年に一度の、派遣社員たちの慰安旅行の開宴を告げる合図だった。

私の名前は、陽炎。派遣社員として、この会社に勤めて二年になる。正社員ではない、いわゆる「弱い立場」で働く身。日々の仕事は、淡々と、そして正確にこなす。誰にも迷惑をかけず、目立たずに。それが私の生存戦略だった。

そんな私が、この「社員旅行」を、密かに楽しみにしている理由があった。それは、いつもとは違う、開放された空間。そして、普段は決して見せない、社員たちの素顔。

今年の旅行先は、山奥の温泉旅館。到着した途端、浴衣に着替えて、皆、酒宴の場へと集まってきた。私も、少し気恥ずかしさを感じながら、浴衣の帯を締め直す。

「陽炎さん、こっちこっち！」

隣の部署の、陽気な田中さんが手を振ってくれた。田中さんは、いつも私のことを気遣ってくれる、数少ない社員の一人だ。

「田中さん、ありがとうございます。」

席に着くと、目の前には、豪勢な料理が並んでいる。そして、湯気の向こうには、顔を赤らめた社員たちが、楽しそうに談笑していた。

「さあ、皆さん、乾杯！」

社長の音頭で、宴が始まった。グラスを掲げる。カラン、と軽やかな音が響く。

「この旅行が、皆さんの日頃の疲れを癒し、明日への活力を養うものとなりますように！」

社長の挨拶は、いつも通り、型通りだった。でも、その言葉に偽りはないと、私は信じていた。

初めのうちは、皆、控えめにお酒を口にしていた。でも、時間が経つにつれて、酔いが回ってくる。普段は物静かな経理部の佐藤さんが、饒舌に話し始めた。営業部のエース、佐藤さんとは、苗字が同じだが、全くの別人だ。

「いやー、派遣社員の皆さんには、いつも感謝してるんですよ。本当に助かってます！」

田中さんが、私にそう言ってくれた。その言葉が、じんわりと胸に沁みる。

「いえ、そんな。私も、皆さんに支えていただいています。」

私も、少しだけ、お酒の力も借りて、素直に答えた。

夜は更けていく。宴は、カラオケへと移行した。ステージには、酔った勢いで、次々と社員が上がっていく。普段はクールな開発部の部長が、演歌を熱唱している。その姿に、皆、歓声をあげていた。

私も、少しだけ、気分が高揚してきた。普段なら、こんな賑やかな場所では、隅っこで静かにしている私だが、今日は、なんだか、違う。

ふと、視線を感じて、顔を上げた。そこには、私よりも一回り年上の、人妻社員、木村さんが、満面の笑みで私を見ていた。木村さんは、いつも明るく、太陽のような人だ。

「陽炎ちゃん、歌わないの？」

木村さんの声に、周りの社員も私に注目する。少し恥ずかしかったけれど、断るのも悪い気がした。

「えっと、何を歌おうかな…。」

私が迷っていると、木村さんが、私の肩に手を置いた。

「じゃあ、私とデュエットしない？」

木村さんの提案に、私は驚いた。でも、なぜか、断れなかった。

「はい、喜んで。」

二人は、ステージに上がった。選んだ曲は、昔のヒットソング。木村さんの歌声は、力強く、そして、温かかった。私の声は、少し震えていたけれど、木村さんの声に寄り添うように、自然と合わさっていく。

歌い終わると、会場から、大きな拍手が沸き起こった。木村さんが、私の手を握り、微笑んだ。

「陽炎ちゃん、上手だったよ！」

その言葉に、私は、じんわりと涙が滲んできた。

宴が終わり、部屋に戻ると、もう深夜だった。一人、部屋の窓から、月を眺める。今日の出来事が、まるで夢のようだった。

普段は、どこか孤独を感じている私。でも、今夜は、温かい気持ちで満たされていた。

明日、また、いつもの日常に戻る。でも、今日のこの記憶は、きっと、私の心の中に、陽炎のように、いつまでも残るだろう。

…

翌朝。

旅館の朝食会場は、昨夜の賑やかさとは打って変わり、静かだった。皆、少し眠たそうな顔をしながら、黙々と食事を摂っている。

私も、いつものように、静かに朝食を摂っていた。しかし、昨夜の出来事が、ふとした瞬間に蘇ってくる。木村さんの笑顔、田中さんの言葉、そして、皆の温かい声援。

「陽炎さん、おはようございます。」

ふと、隣から声がかかった。見ると、木村さんが、私に微笑みかけていた。

「木村さん、おはようございます。」

「昨日は楽しかったね。陽炎ちゃん、歌声、綺麗だったわよ。」

「ありがとうございます。木村さんと歌えて、嬉しかったです。」

木村さんの言葉に、私は、自然と笑顔になった。

「さあ、今日は、観光だよ。どこか行きたいところはある？」

木村さんの問いに、私は、少し迷った。

「うーん、特には…。でも、皆で、どこか行けたら嬉しいです。」

「そうね。じゃあ、皆で相談しましょう。」

木村さんと話していると、田中さんが、私たちのテーブルにやってきた。

「お二人とも、もう朝食は済まれたんですか？」

「ええ、済ませましたよ。」

「なら、これから、近くの景色の良い湖に、ドライブでも行きませんか？車、一台空いてるんです。」

田中さんの提案に、木村さんと私は、顔を見合わせた。

「いいわね！ぜひ行きましょう！」

木村さんが、賛成した。私も、二つ返事で同意した。

湖畔は、新緑が美しく、清々しい空気で満ちていた。車の中から、木村さんと田中さんの、楽しそうな会話が聞こえてくる。私も、窓の外の景色を眺めながら、穏やかな気持ちでいた。

普段は、仕事のことで頭がいっぱいで、周りを見る余裕もなかった。でも、こうして、皆と過ごす時間は、私に、人生の彩りを与えてくれる。

「陽炎さん、何か飲み物でもどうですか？」

田中さんが、ペットボトルの水を差し出してくれた。

「ありがとうございます。」

私は、水を受け取り、一口飲んだ。冷たい水が、喉を潤していく。

湖畔に到着すると、皆、車から降りて、散策を始めた。私は、木村さんと一緒に、ゆっくりと歩いていた。

「陽炎さん、この景色、本当に綺麗ね。」

木村さんが、感嘆の声を漏らす。

「ええ、本当に。」

私も、目の前に広がる、澄み切った湖面を見つめた。水面に映る青い空と、緑の木々。その景色は、まるで、私の心の中の、澱んだものを洗い流してくれるかのようだった。

「あのね、陽炎さん。」

木村さんが、少し、真剣な表情で、私に話しかけてきた。

「私ね、派遣社員の方々には、いつも、感謝してるの。正社員だけじゃ、会社は成り立たないわ。皆、それぞれの立場で、一生懸命働いてくれてる。だから、もっと、皆が、安心して働けるような環境を作ってあげたいなって、いつも思ってるの。」

木村さんの言葉に、私は、胸が熱くなるのを感じた。

「木村さん、そんな風に思ってくださって…ありがとうございます。」

「ううん。でも、まだまだ、私だけじゃ、力不足ね。陽炎さんも、何か、困ったことや、こうだったらいいなって思うことがあったら、いつでも言ってね。」

木村さんの、温かい眼差し。その眼差しに、私は、初めて、この会社で、自分も誰かの役に立てるのかもしれない、そんな希望を感じた。

…

社員旅行の最終日。

帰りのバスの中で、皆、少し疲れた顔をしながらも、どこか満足げな表情をしていた。私は、窓の外を流れる景色を眺めながら、今回の旅行を振り返っていた。

この旅行で、私は、たくさんの温かい言葉や、笑顔に触れた。そして、自分自身も、少しだけ、変われたような気がした。

「陽炎さん、来年の旅行も、楽しみだね！」

隣に座っていた田中さんが、声をかけてきた。

「ええ、そうですね！」

私も、笑顔で答えた。

バスが、会社の駐車場に到着した。皆、それぞれの家路へと急ぐ。私も、荷物をまとめ、バスを降りた。

「ありがとうございました！皆さん、お気をつけて！」

私は、皆に、小さく手を振った。

そして、一人、家の方向へ歩き出した。

足取りは、軽かった。

陽炎のように、掴みどころのない存在だった私。でも、この社員旅行で、私は、確かに、何かを掴んだ気がした。

それは、温かい人間関係。そして、未来への希望。

明日から、また、いつもの日常が始まる。でも、もう、私は、一人ではない。

心の中に、温かい光を灯して、私は、新たな一歩を踏み出す。

これから、どんな日々が待っているのか、それは、まだ分からない。

でも、あの陽炎のように、いつか、私自身も、誰かを照らせるような、そんな存在になれたら…そう、願っていた。