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## 軋む糸、溶ける夜

「また？」「だから、言ったでしょ」

キッチンからは、妻・美咲の冷たい声が響く。夫・健一は、リビングのソファで新聞を広げたまま、ため息をついた。週末の朝。本来なら、穏やかな時間が流れるはずのこの空間に、ここ数ヶ月、張り詰めた糸のようなものが常に漂っている。

原因は、健一にあるのだろう。仕事が多忙を極め、家にいる時間も、美咲と向き合う時間も激減していた。週末も、疲労からか、すぐに寝てしまうか、こうして新聞に逃げ込むかのどちらかだった。美咲は、以前は健一の仕事熱心さを尊敬していた。しかし、今はそれが、自分への無関心にしか感じられなくなっていた。

「健一、お皿洗ってくれるって言ってたわよね？」美咲が、エプロン姿で健一の前に立った。その表情には、怒りというよりも、諦めのような色が滲んでいる。

「あ、ごめん、忘れてた。後でやるよ」健一は、新聞を畳み、立ち上がった。しかし、その足取りは重く、美咲の期待に応える気力も湧かない。

「後で、じゃなくて、今やってほしいの。昨日だって、夕食の片付け、私一人だったじゃない」美咲の声に、わずかに怒りが混じった。その怒りに、健一はさらに萎縮する。妻の機嫌を損ねたくない、だが、どうすればいいのか分からない。そして、何よりも、疲れていた。

「うるさいな、もう。そんなに言うなら、自分でやればいいだろう！」健一は、衝動的に言い放ってしまった。言葉にして初めて、その酷さが分かった。美咲の顔から、血の気が引いていくのが見えた。

「……もう、いいわ」美咲は、何も言わず、キッチンに戻った。背中が、小さく震えているのが分かった。健一は、自分が犯した過ちに、ただ立ち尽くすしかなかった。

その夜、食卓には沈黙だけが満ちていた。互いに視線を合わせることもなく、ただ機械的に食事を口に運ぶ。美咲の顔色は、依然として悪かった。健一は、胸の奥が締め付けられるような罪悪感に苛まれていた。

「……ごめん」食事が終わった後、健一は絞り出すように言った。

美咲は、食器を片付けながら、静かに答えた。「謝って済むなら、話は別よ」

その言葉が、健一の心をさらに冷え込ませた。美咲の言葉の裏には、蓄積された不満と、もう自分は必要とされていないのではないか、という孤独感が隠されているように感じられた。嫉妬。美咲は、健一が仕事に没頭する姿、仕事仲間との楽しそうな会話、それら全てに、自分を置き去りにされているような感覚を抱いていたのかもしれない。

健一は、美咲の肩に手を置こうとした。しかし、美咲は、その手を静かに払いのけた。「触らないで」

その冷たい拒絶が、健一の心を深く傷つけた。関係は、もう修復不可能なのかもしれない。そんな絶望感が、健一を支配し始めた。

その夜、二人は別々の寝室で眠った。健一は、眠れないまま、天井を見つめていた。美咲の悲しそうな顔、怒りの混じった声、そして、あの冷たい拒絶。全てが、健一の胸を締め付けた。

（どうして、こんなことになってしまったんだろう…）

健一は、美咲との出会いを思い出した。彼女の笑顔、優しさ、そして、何よりも、自分を必要としてくれる温かさ。あの頃は、二人の間には、どんな困難も乗り越えられるという確信があった。しかし、いつからだろうか、その確信が揺らぎ始めたのは。

ふと、美咲の言葉が蘇った。「謝って済むなら、話は別よ」

（謝るだけじゃ、ダメなのか…）

健一は、ベッドから起き上がった。胸に、言葉にできない衝動が渦巻いている。それは、後悔であり、焦りであり、そして、失いたくないという切実な願いだった。

健一は、そっと美咲の寝室のドアを開けた。部屋の中は、月明かりが静かに差し込み、美咲の寝顔を淡く照らしていた。彼女の表情は、昼間よりも幾分穏やかだったが、その頬には、まだ微かに涙の跡が残っているように見えた。

健一は、ゆっくりと美咲の傍らに歩み寄り、その隣に静かに横たわった。美咲は、健一の気配に気づいたのか、そっと目を開けた。その瞳に、驚きと、わずかな戸惑いが浮かぶ。

「……健一？」

健一は、何も言わなかった。ただ、美咲の顔をじっと見つめた。そして、ゆっくりと手を伸ばし、彼女の頬に触れた。

「ごめん…本当に、ごめん」

声が、震えた。美咲は、健一の手を、そっと握った。その手は、驚くほど冷たかった。

「もう、怒ってないよ」美咲の声は、かすかに震えていた。「ただ…寂しかっただけ」

「寂しかった…？」健一は、美咲の言葉の意味を、ゆっくりと理解した。自分の無関心が、彼女をどれだけ孤独にさせていたのか。

「うん。健一が、私を見てくれていないって…」

健一は、美咲の手を強く握った。そして、彼女の体を優しく抱き寄せた。美咲は、健一の胸に顔を埋め、静かに泣き始めた。その涙は、悲しみだけではなく、安堵と、わずかな希望の涙のようにも見えた。

「もう、大丈夫だよ。これからは、ちゃんと君を見る」

健一は、美咲の髪を優しく撫でながら、そう誓った。その誓いは、言葉だけではない。健一の胸に、熱いものが込み上げてきた。それは、失いかけた絆を取り戻したいという、強い衝動だった。

月明かりが、二人の体を優しく包み込む。軋んでいた糸は、ゆっくりと、しかし確かに、溶け始めていた。そして、その夜、二人の間には、言葉では語れない、静かな、しかし力強い愛が、再び息づき始めたのだった。

翌朝、キッチンには、健一が作った朝食が並んでいた。温かいパン、サラダ、そして、美咲の好きなフルーツ。美咲は、その光景に、思わず笑みをこぼした。

「おはよう」健一は、いつものように、しかし、いつもとは違う、穏やかな声で言った。

「おはよう」美咲は、その笑顔に、心から微笑み返した。

二人の関係は、すぐに劇的に変わったわけではない。しかし、あの夜の出来事を境に、二人の間には、以前よりも深い理解と、より強い絆が芽生えていた。健一は、仕事の合間を縫って、美咲との時間を大切にするようになった。些細な喧嘩も、以前のように感情的になるのではなく、互いの気持ちを丁寧に聞き合うようになった。

ある日、美咲が、健一に尋ねた。「ねえ、健一。あの夜のこと、覚えてる？」

健一は、微笑んで答えた。「もちろん。あの夜があったから、今の僕たちがいるんだ」

美咲は、健一の胸に顔を埋めた。「ありがとう」

健一は、美咲の背中を優しく撫でた。「こちらこそ」

悪い状況を、最高のものにする。それは、怒りや悲しみを乗り越え、互いの心に寄り添うことで、新たな光を見出すこと。そして、その光は、時に、最も深い愛情となって、二人の関係を、さらに強く、豊かにしてくれるのだ。別れは、必ずしも苦痛ではない。むしろ、それは、愛を再確認し、より深い絆を育むための、最高の機会になることもあるのだ。二人の間には、これからも、たくさんの「仲直り」の夜が、温かい愛情と共に訪れることだろう。