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## 潮風と涙の記憶

西暦20XX年、東京湾に浮かぶ人工島、希望ヶ丘学園。ここでは、時代に取り残されたかのような古めかしい制服はなく、生徒たちは皆、自由な服装で campus を闊歩していた。総合学科という名のここは、成績も、出自も、何もかもがごちゃ混ぜになった、ある意味で「本物」の人間が交差する場所だった。

私は、その「本物」の一つとして、この学校に転校してきた。名前は、マリア。金髪碧眼、身長160cm、そして…まあ、身体的な特徴は、ここではあまり意味をなさない。転校初日、担任の先生に渡されたのは、旧式のジャージと、簡素なロッカーの鍵だけだった。

「マリアさん、ようこそ希望ヶ丘学園へ。ここは、色々な事情を抱えた生徒が集まる場所です。あなたも、きっとすぐに馴染めるはずですよ。」

先生の言葉は、どこか遠い響きを持っていた。流れるような、それでいてどこか虚ろな声。彼女は、この学園の「裏」を知っているのだろうか。

教室に入ると、ざわめきが一瞬止まり、好奇と嘲りの視線が私に突き刺さった。視線というのは、時に刃物よりも鋭い。特に、私の異質な金髪と、どこか場違いな雰囲気は、彼らの格好の餌食になった。

「転校生だ！」「金髪だって！」「なんか、やばい噂あったよな！」

囁き声が、耳に心地よくないノイズとなって響く。噂。そう、私は「噂」と共にやってきた。流出動画。その言葉が、私の背中に張り付いた重い影だった。

授業は、想像以上に緩かった。教科書を広げ、ノートを取る生徒は少数。ほとんどが、スマホをいじったり、内職をしたり、あるいはただぼんやりと窓の外を眺めている。教師も、それを咎める素振りは見せない。まるで、ここは「授業」という名の形式だけをこなすための場所のようだった。

昼休み、私は一人、購買で買ったサンドイッチを抱えて、校庭の隅にあるベンチに座った。太陽の光が、金髪に反射して眩しい。遠くの海からは、潮の匂いが微かに漂ってきた。あの匂いを嗅ぐと、いつも色々な記憶が蘇ってくる。楽しかった記憶、そして、辛かった記憶。

「一人で食べてるの？」

声の主は、クラスメイトのミカだった。ショートカットで、少し生意気そうな顔立ち。彼女は、私の隣に座り、持っていたお菓子を半分くれた。

「ありがとう。」

「別に。どうせ一人で食うより、誰かと食う方がマシでしょ？」

ミカは、そう言ってニヤリと笑った。彼女は、この学園の「空気に」慣れているようだった。

体育の授業は、さらに過酷だった。狭い体育館に、汗と埃の匂いが充満する。先生は、元プロボクサーらしき、恰幅の良い男性だった。彼は、生徒たちに容赦なくスパルタ指導を繰り広げる。

「もっと気合を入れろ！ 転校生、お前もだ！」

先生の声が、体育館に響き渡る。私は、必死に指示に従った。だが、集中しようとすればするほど、あの流出動画の記憶がフラッシュバックする。あの時の、屈辱と無力感。

授業が終わった後、更衣室で着替えていると、女子生徒たちが私を取り囲んだ。

「ねえ、マリア。」

一人の女子生徒が、私のジャージの裾を掴んだ。

「そのジャージ、新しいの？」

「…うん。」

「どこで買ったの？ 私も欲しいな。」

彼女たちの目は、好奇心というよりは、探るような、試すような光を宿していた。私は、うまく言葉が出てこなかった。

「あのさ、マリア。」

別の女子生徒が、私の肩に手を置いた。

「流出動画、見たよ。すごいね。」

その言葉を聞いた瞬間、私の心臓が凍り付いた。冷たい汗が、背中を伝う。

「…やめて。」

絞り出すような声だった。

「えー、何？ 嫌なの？ でも、みんな興味あるんだよ？」

彼女たちは、さらに距離を詰めてきた。私は、必死に抵抗した。

「無理…やめてください！」

「ほら、泣きそうじゃん。泣き顔も可愛いかもね。」

誰かが、私の頬に触れようとした。私は、全身で拒絶した。

「嫌だ！ 触らないで！」

その時、更衣室のドアが開いた。そこに立っていたのは、担任の先生だった。彼女は、私の様子を見て、すぐに状況を理解したようだった。

「あなたたち、何をしているの！」

先生の声に、女子生徒たちは一斉に後ずさった。

「なんでもありません。」

そう言って、彼女たちは足早に更衣室を出て行った。

残されたのは、私と先生、そして、ひび割れた鏡に映る、涙に濡れた自分の顔だった。

「大丈夫？」

先生が、そっと私の肩に手を置いた。

「…はい。」

私は、顔を上げた。涙が、頬を伝って流れ落ちる。それは、あの流出動画の時のような、屈辱の涙ではなかった。それは、この場所で、初めて流した、自分自身の涙だった。

放課後、私は一人、学校の裏手にある海辺にいた。潮風が、金髪を撫でる。遠くには、夕日が海を茜色に染めていた。

あの流出動画は、私の過去の一部だ。消すことのできない、汚点。でも、それは私の一部であって、全てではない。

私は、砂浜に座り込み、波打ち際を眺めた。波が、私の足元に優しく打ち寄せる。その度に、冷たい水が私の足にかかる。

「潮吹き」という言葉。それは、あの動画の中で、私を貶めるために使われた言葉だった。しかし、今、この潮風の中で、私はその言葉の意味を、少しだけ違う形で捉えていた。

水しぶきが、まるで私の涙のように、キラキラと輝いて見えた。

「失禁」という言葉。それも、私を責めるための言葉だった。しかし、この穏やかな波の音を聞いていると、そんな言葉さえも、遠い昔の出来事のように感じられた。

「ぶっかけ」という言葉。それは、私を穢すための言葉だった。だが、この広大な海に身を委ねていると、そんな言葉に縛られている自分自身が、ちっぽけに思えた。

誰かが、私の背後に現れた。振り返ると、ミカだった。彼女は、何も言わずに、私の隣に座った。

「綺麗だね、夕日。」

ミカが、静かに言った。

「うん。」

私は、小さく頷いた。

「あのね、マリア。」

ミカは、少し間を置いてから、続けた。

「この学校には、色々な人がいる。君みたいに、過去を抱えている人も、たくさん。」

「…そうなんだ。」

「だから、あんまり気にしないで。君は、君のままでいいんだよ。」

ミカの言葉は、温かかった。まるで、冷たい波に、温かい陽射しが差し込んだかのようだった。

「ありがとう。」

私は、再び涙ぐんだ。今度の涙は、もう、悲しい涙ではなかった。それは、感謝の涙であり、そして、希望の涙だった。

「複数」という言葉。それは、あの動画で、私を貶めるために使われた言葉だった。しかし、今、私の隣には、ミカという「一人」がいる。そして、この広大な海と、夕日と、そして、私という「一人」がいる。

「やめて」という言葉。それは、あの時、私が叫んだ言葉だった。でも、今、私は、もう、そんな言葉に縛られなくてもいいのかもしれない。

「嫌」という言葉。「無理」という言葉。それも、あの時の私の叫びだった。しかし、今、私は、この場所で、新しい「自分」を見つけようとしている。

夕日が、完全に海に沈んだ。夜空には、星が瞬き始めた。

潮風が、私の頬を優しく撫でる。それは、まるで、この学園で、新しい人生が始まる合図のように思えた。

希望ヶ丘学園。ここは、私が「流出動画」の過去から、再び立ち上がるための、最初の場所なのかもしれない。

そして、私は、もう一度、この海に向かって、静かに呟いた。

「潮吹き」

それは、もはや、貶めるための言葉ではなかった。それは、私自身の、力強い生命の息吹のように、響いていた。