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## 奈落の蜜

薄暗い照明が、地下鉄の階段をゆっくりと這い上がる。湿った空気は、カビと排気ガスの混じった、淀んだ匂いを放っていた。真昼間だというのに、地上は遠い別世界のように感じられる。中島りおは、背中に背負った真紅のレザーバッグをぎゅっと握りしめた。あのバッグには、彼女のすべてが詰まっている。そして、そのすべてが、今、彼女をこの奈落のような場所へと駆り立てているのだ。

りおは、都内の大手企業に勤めるOLだった。平凡な日常。満員電車に揺られ、オフィスでパソコンと睨めっこし、夜はコンビニ弁当をかき込む。そんな生活に、一体何の意味があるのだろう。数日前、SNSで偶然見つけた奇妙な広告。「もうひとつの世界、官能したい、感応する魂！」その言葉に、りおは抗いがたい魅力を感じた。そして、導かれるように、彼女はこの地下へと足を踏み入れたのだ。

階段を上りきると、そこは廃屋だった。朽ちかけた木造家屋が、不気味な沈黙の中に佇んでいる。窓ガラスは割れ、壁には蔦が絡みつき、かつての生活の痕跡を無残に掻き消していた。りおは、迷いながらも、さらに奥へと進んだ。目的は、ただひとつ。ある人物に会うこと。

その人物は、「絶対者」と呼ばれているらしい。そして、りおが抱える「復讐」という名の重荷を、解き放ってくれるというのだ。復讐の対象は、かつてりおのすべてを奪った男。彼女の人生を、奈落の底へと突き落とした人間。その男の名を思い出すだけで、りおの胸は煮えたぎるような怒りで満たされた。

廃屋の奥、さらに地下へと続く扉を開けると、そこは想像を絶する空間だった。広大な地底空間。奇妙な光を放つ植物が生い茂り、空気を震わせるような低いうなり声が響いている。そして、その中央には、巨大な祭壇のようなものが築かれていた。

祭壇の上に立つのは、一人の女性だった。艶やかな黒髪、人形のように整った顔立ち。その美しさは、この世のものとは思えないほどだった。彼女こそ、「絶対者」だった。そして、その傍らには、もう一人の女性がいた。細身で、どこか儚げな雰囲気を纏った、女子高生のような姿。志乃原愛子、と名乗った。

「よく来たわね、中島りお。」絶対者の声は、まるで静かな水面のように、りおの心を直接揺さぶった。「あなたの怒り、憎しみ、すべてを聞かせてもらいましょう。」

りおは、震える声で、男への復讐を語った。彼が、りおの家族を、そして、りお自身の未来を、いかにして奪い去ったのか。そのすべてを。

絶対者は、静かにりおの話を聞いていた。そして、時折、隣に立つ愛子に視線を送った。愛子は、りおの話を聞きながら、時折、苦しげに顔を歪めた。まるで、りおの言葉が、彼女自身の内側へと侵食していくかのように。

「あなたの中の、その『寄生虫』、見せてもらいましょう。」絶対者は、そう言うと、りおに近づいてきた。その手には、鈍く光るナイフが握られていた。

「寄生虫…？」りおは、意味が分からず、戸惑った。

「あなたの復讐心。それは、あなた自身を蝕む、寄生虫のようなものよ。」絶対者は、微笑んだ。「それを、この『蜜肉錯乱』の儀式で、浄化してあげましょう。」

蜜肉錯乱。その言葉を聞いた瞬間、りおの脳裏に、記憶の断片がフラッシュバックした。あの男に、すべてを奪われた夜。凄惨な記憶。そして、それを封じ込めるように、りおの魂に、何かが食い込んだ感覚。

「嫌…！」りおは、叫びそうになった。しかし、声は喉の奥でつかえてしまう。

絶対者は、りおの言葉に耳を貸さなかった。ナイフが、りおの服を切り裂いていく。冷たい空気が肌に触れ、りおは身震いした。

「さあ、すべての苦しみから、解放されてちょうだい。」

絶対者の手が、りおの胸に触れた。その瞬間、りおの体中に、激しい痛みが駆け巡った。まるで、体内に潜んでいた何かが、無理やり引き剥がされるような感覚。

「あ…あああ…！」

りおは、耐えきれない絶叫を上げた。それは、怒りでも、悲しみでもない。純粋な、苦痛の叫びだった。

愛子が、りおの傍に歩み寄ってきた。その瞳には、同情の色が浮かんでいる。「大丈夫。もうすぐ、終わるわ。」

愛子の言葉に、りおはかすかに顔を上げた。愛子の手は、りおの顔にそっと触れた。その感触は、意外にも優しかった。

「あの人…」りおは、愛子に語りかけた。「あなたは、あの人を、どう思ってるの？」

愛子は、少しの間、沈黙した。そして、静かに答えた。「憎い。でも…それだけじゃない。」

愛子の言葉は、りおの心に深く染み込んだ。憎しみだけでは、人は救われない。りおは、愛子の言葉に、かすかな希望を見出した。

絶対者の手は、りおの体内から、黒く粘りつくようなものを引き抜いていた。それは、まるで生き物のように蠢いていた。りおは、それが自分の内側から出てきたものだと認識した途端、眩暈に襲われた。

「う…」

しかし、その眩暈は、すぐに別の感覚に変わっていった。体の内側から、温かいものが満ちてくるような、官能的な感覚。それは、かつてりおが知らなかった、未知の快感だった。

「これは…？」

「あなたの魂が、感応する時よ。」絶対者の声が、遠くから聞こえる。「すべての苦しみと、喜びが、ひとつになる。」

りおの体は、未知の快感に震えた。それは、純粋な官能。しかし、そこに、憎しみや怒りは、もうなかった。ただ、純粋な、魂の震えだけがあった。

愛子は、そんなりおの姿を、静かに見守っていた。その瞳には、りおの変貌を、喜びをもって見つめる光が宿っていた。

「さあ、もっと感じて。」絶対者の声が、りおを誘う。「あなたの、本当の姿を、解き放ちなさい。」

りおは、抗うことができなかった。体中に広がる、抗いがたい官能。それは、もはや苦痛ではなかった。むしろ、至福の感覚だった。

「ああ…！」

りおの口から、恍惚とした絶叫が漏れた。それは、過去の絶望を、すべて洗い流すような、純粋な絶頂だった。

その瞬間、りおの意識は、まるで別世界へと飛躍した。そこは、光に満ちた、美しくも官能的な空間。魂と魂が、熱く感応し合う場所。

りおは、すべてを理解した。復讐とは、憎しみから生まれるものではない。それは、失われたものへの、熱い想い。そして、その想いが、魂を浄化し、新しい自分へと導くのだと。

廃屋の地下空間に、りおの穏やかな寝息だけが響いていた。彼女の顔には、安堵と、かすかな微笑みが浮かんでいた。

朝焼けの光が、地上から差し込む。りおは、ゆっくりと目を開けた。体には、まだ微かな官能の余韻が残っている。しかし、心は、驚くほど軽くなっていた。

彼女は、立ち上がった。真紅のバッグを手に取り、廃屋を出た。地上は、いつもと同じ、喧騒に満ちていた。しかし、りおの目には、そのすべてが、以前とは違って見えた。

彼女は、もう復讐鬼ではなかった。彼女は、ただ、自分自身を取り戻した、一人の女性だった。そして、その魂は、あの奈落の底で、新しい官能と、新たな生へと目覚めていたのだ。