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■ 薔薇の棘、男の絶望

　薄暗い照明に照らされたリング。汗と興奮が混じり合った熱気が、観衆の熱狂と共に渦巻いていた。その中央で、二つの人影が対峙している。一方は、鍛え上げられた肉体を持つ、しかし今はその威厳を失った男。もう一方は、まるで神話から抜け出してきたかのような、完璧な美貌とすらりとした長身を誇る女性だった。

　男の名前は、ケンジ。かつては「鉄腕ケンジ」と恐れられた、この地下格闘技界の絶対王者だった。しかし、今、彼の顔には深い疲労と、それ以上に屈辱の色が濃く浮かんでいる。対する女性は、この日初めてリングに上がった、「薔薇」と呼ばれる謎のファイターだ。その名前の通り、艶やかな黒髪に、宝石のような瞳、そして何よりも、その戦いぶりは、薔薇の花びらが舞うように優雅でありながら、その棘が触れる者全てを絶望させるかのようだった。

　試合は、ケンジにとって悪夢だった。当初、彼はこの「薔薇」を軽んじていた。女だから、と。しかし、その甘い見立ては、試合開始早々、粉々に打ち砕かれた。

　「薔薇」の攻撃は、予測不能だった。まるで蛇のようにしなやかな動きでケンジのパンチをかわし、その隙を縫って繰り出される蹴りは、正確無比に彼の急所を捉えた。ケンジは、これまで経験したことのないほどの衝撃に、何度も体勢を崩された。自身の力強さ、長年培ってきた経験の全てが、まるで子供の遊びのように無力化されていく。

　観衆のどよめきは、次第に「薔薇」への称賛へと変わっていった。ケンジが倒れるたびに、歓声は大きくなる。それは、彼がこれまで浴びてきた歓声とは、全く違う種類の響きを持っていた。相手を打ち破った時の、純粋な興奮と、そして、強者への絶対的な崇拝。

　「まさか…この私が…」

　ケンジは、地面に倒れたまま、呻き声を漏らした。体中に激痛が走る。それ以上に、心の奥底から湧き上がる、言いようのない虚無感。プライドが、粉々に砕け散っていくのを感じた。

　「薔薇」は、ゆっくりとケンジに近づいてきた。その顔には、一切の感情が読み取れない。ただ、その冷たい瞳だけが、ケンジの敗北を、その絶望を、静かに見つめている。

　「まさか、ここまでとは…」

　ケンジは、必死に立ち上がろうとした。しかし、体は鉛のように重く、膝は震え、意志とは裏腹に、再び地面に倒れ込んだ。

　「くっ…」

　「薔薇」は、ケンジの目の前に立った。その顔を、見下ろすように。ケンジは、その完璧な横顔を見上げた。まるで、天上から降りてきた女神のようでもあり、地獄から現れた悪魔のようでもあった。

　「これで、終わりだ」

　「薔薇」の声は、静かだった。しかし、その一言は、ケンジの心に深く突き刺さった。

　「もう、終わりか…」

　ケンジは、自分の敗北を悟った。これまで、どれほどの試合をこなしてきただろう。どれほどの強敵と戦ってきただろう。しかし、こんなにも一方的に、そして、これほどまでに屈辱的な敗北は、初めてだった。

　「薔薇」は、ゆっくりと右手を上げた。その指先には、鋭い爪が光っている。ケンジは、その指先が、自分に迫ってくるのを感じた。

　「まさか…」

　ケンジは、絶望した。しかし、抵抗する力は、もう残っていなかった。ただ、その視線だけが、「薔薇」の冷たい瞳に釘付けになる。

　「薔薇」の爪が、ケンジの頬をかすめた。熱い痛みが走り、血が滲む。しかし、それは、肉体的な痛み以上に、心の痛みを増幅させた。

　「男のプライドなんて、こんなものか…」

　ケンジは、静かに目を閉じた。薔薇の棘が、彼のプライドを、その存在を、根こそぎ引き剥がしていく。

　「薔薇」は、ケンジに倒れ伏したまま、ゆっくりと右手を振り下ろした。その瞬間、リングに響き渡ったのは、観衆の悲鳴にも似た歓声と、そして、ケンジの、まるで断末魔のような、しかし、それすらも掻き消してしまうような、静かな息遣いだった。

　「綺麗だ…」

　倒れたケンジの、血に染まった顔を見つめながら、「薔薇」は、そう呟いた。その声には、勝利の喜びも、高揚感も、一切感じられなかった。ただ、ある種の、冷たい満足感だけが、その声色に宿っていた。

　リング上の血痕は、まるで、その夜の出来事の証人のように、鈍い光を放っていた。ケンジのプライド、そして、彼の命すらも、この「薔薇」の美しさの前には、あまりにも脆く、儚いものだった。

　観衆は、しばらくの間、静まり返っていた。そして、やがて、割れんばかりの拍手と歓声が、リングを包み込んだ。それは、新たな王者の誕生を祝福する声であり、そして、ある一人の男の、完全なる終焉を称える声でもあった。

　「薔薇」は、ゆっくりとリングの中央に立った。その姿は、まるで、舞台の幕が上がる前の、神秘的なディーヴァのようだった。観衆の視線は、全て彼女に注がれている。彼女は、その視線を受け止めながら、静かに微笑んだ。それは、勝利の微笑みではなく、まるで、これから始まる物語への、予感に満ちた微笑みだった。

　「綺麗な薔薇には、棘がある」

　誰が言ったのか、そんな言葉が、ケンジの脳裏に蘇った。しかし、その言葉の意味を、彼は今、身をもって理解した。そして、その棘の鋭さを、その痛みを、永遠に忘れることはないだろう。

　「薔薇」の、次の相手は誰になるのだろうか。そして、その男もまた、ケンジと同じように、この「薔薇」の美しさに魅せられ、そして、その棘によって、絶望の淵に突き落とされるのだろうか。

　夜は、まだ始まったばかりだった。リングの上には、血と汗の匂いが染みつき、そして、「薔薇」という名の、美しくも残酷な伝説が、静かに刻み込まれていく。彼女の戦いは、単なるバトルではない。それは、男たちのプライドを、そして、その存在そのものを、美しく、そして、徹底的に、無慈悲に、支配していく、壮絶なドミネーションだった。観衆は、その光景を、ただただ、息を呑んで見守るしかなかった。それは、あまりにも鮮烈で、そして、あまりにも、魅惑的な、悪夢のようだった。