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■ 咲き誇る紫陽花の下で

梅雨の気配が色濃くなる六月。古都の片隅にある静かな住宅街に、それは静かに、しかし確実に忍び寄っていた。

「あら、〇〇さん、ちょうどいいところにいらっしゃいましたわ！この紫陽花、今年一番の見頃ですことよ！」

木村祥子（よしこ）、四十五歳。近所の奥様連との数少ない息抜きである、週に一度の「お茶会」の最中だった。庭に咲き誇る淡い紫の紫陽花に目を細める彼女の声は、いつも通り朗らかで、生活の彩りそのものだった。

「本当に綺麗ね、祥子さん。まるで祥子さんの心みたいだわ」

隣に座る佐藤美代子、四十八歳。少しふくよかな体型を隠すように、ゆったりとしたワンピースを着ている。彼女の言葉に、祥子も、そしてもう一人、鈴木明子、四十六歳も、笑顔で頷いた。明子は、細身ですらりとした体型が、どこか影を纏っているかのように見えた。

「お世辞でも嬉しいわ。さ、どうぞ。冷たいお茶をご用意しましたの」

祥子は、自慢の庭で摘んだミントを添えたアイスティーを、二人の奥様方に手渡した。彼女たちの会話は、子供の学校のこと、近所の噂話、そして夫たちの愚痴。どれもこれも、日々の生活に根差した、ありふれたものだった。しかし、そのありふれた時間こそが、彼女たちにとって何よりの安らぎであり、輝きだった。

「それにしても、最近は全然運動できてないのよねぇ。このお腹、どうにかしないと」

美代子が、自分のウエストあたりを軽くつまみながらため息をついた。

「私もよ。子供たちが独立してから、食べる一方だわ。たまには、ホットヨガでも始めようかしら」

明子が、遠い目をして呟く。彼女たちにとって、「女としての身体」は、もう遠い昔のものになりつつあった。育児に家事に仕事。いつの間にか、自分のことは後回し。鏡に映る自分は、かつての瑞々しさを失い、疲労や諦めといった言葉が似合うようになっていた。

「でも、この年になると、体型を気にするのも、なんだか虚しい気がしてくるわよね」

祥子は、そう言って微笑んだ。その微笑みには、諦めというよりは、達観したような、穏やかな響きがあった。

その日、お茶会はいつも通り、和やかな雰囲気で幕を閉じた。

しかし、その数日後、静かな住宅街に、悪意の影が忍び寄る。

祥子は、一人で近所のスーパーへ買い物に出かけていた。午後の日差しが、アスファルトをじりじりと照りつける。彼女は、淡い花柄のワンピースを着ていた。普段は、家でのんびり過ごすことが多い彼女は、この日も、特に外出の予定もなく、ラフな格好で出かけたのだ。

「あら、祥子さん！いいお天気ねぇ！」

スーパーの入り口で、偶然にも顔見知りの主婦とすれ違った。祥子は、笑顔で会釈を返す。そんな、ごく普通の日常の光景だった。

店内で、特売の野菜や果物をカゴに入れながら、祥子はふと、あることに気づいた。いつもなら、すれ違う人々との些細なやり取りに、ささやかな喜びを感じるのだが、今日はなぜか、周囲の視線が気になる。

「気のせいかしら」

そう思いながら、彼女はレジへと向かった。

その時だった。

「おばさん、ちょっといい？」

突然、背後から低い声がかけられた。祥子は、驚いて振り返る。そこに立っていたのは、見知らぬ男だった。三十代後半くらいだろうか。顔には、どこか虚ろな、しかしギラついた光を宿していた。

「あの…、何かご用ですか？」

祥子は、警戒心を抱きながらも、丁寧に応対しようとした。しかし、男は彼女の言葉に耳を貸さなかった。

「なんだよ、そのワンピース。意外と、いいカラダしてんじゃねぇか」

男は、祥子の顔をじっと見つめ、ニヤリと笑った。その視線は、彼女の服の上から、まるで皮膚を這いずるように、不快な熱を帯びていた。

「失礼よ！私、既婚者なんですけど！」

祥子は、反射的にそう言い返した。しかし、その言葉は、男の耳には届かなかった。

「既婚者？だから、どうした？むしろ、そそるじゃねぇか」

男は、祥子の腕を掴んだ。その手は、驚くほど力強かった。

「やめてください！離してください！」

祥子は、必死に抵抗する。しかし、男の力は、彼女の想像を遥かに超えていた。

「騒ぐんじゃねぇよ。ここで、そんな大声出したら、もっと恥ずかしい目に遭うぞ？」

男の口元が、歪んだ。その言葉には、明らかな脅迫が含まれていた。

「お願いですから…」

祥子の声は、震えていた。彼女の心臓は、激しく鼓動していた。

男は、彼女の抵抗を無視するように、強引に祥子を店の裏口へと引きずっていった。そこは、人通りの少ない、薄暗い通路だった。

「うそだろ…」

祥子は、現実感が希薄になっていくのを感じた。普段、彼女は、このような非日常とは無縁の生活を送っていた。夫は、穏やかで、会社員。子供たちも、もう成人し、それぞれの道を歩んでいる。暴力や、理不尽な出来事など、遠い世界のことだと思っていた。

「いいから、黙ってろ」

男は、祥子のワンピースのボタンに手をかけた。

「やめて！お願いだから！」

祥子は、泣きそうになりながら訴えた。しかし、男は聞く耳を持たなかった。

「おばさん、案外いいカラダしてんじゃん」

男の声が、祥子の耳元で響いた。その言葉が、彼女の心に突き刺さった。

「いいカラダ」… その言葉は、三十年以上も前、まだ少女だった頃に、誰かに言われた言葉を思い出させた。しかし、今は、その言葉が、彼女の尊厳を根こそぎ奪っていくかのように感じられた。

男の手が、祥子のワンピースのボタンを、次々と乱暴に外していく。生地が裂ける音が、不快に響いた。

「いやぁぁぁ！」

祥子の悲鳴が、梅雨空に吸い込まれていく。

下着が露わになり、冷たい空気に触れる。彼女は、羞恥のあまり、顔を上げることができなかった。かつて、夫に愛され、満ち足りていたはずの、自分の身体。それが今、無防備な姿で、見知らぬ男の前に晒されている。

「なに、その下着…？意外と、趣味がいいじゃねぇか」

男は、祥子の下着を嘲笑うように見つめた。その視線が、彼女の全てを否定していくようだった。

「おばさん、案外いいカラダしてんじゃん。もっと、楽しませてくれよ」

男は、祥子の頬を撫でた。その手は、冷たく、そして汚く感じられた。

祥子の目からは、涙が溢れ出した。しかし、それは、悲しみや、恐怖だけでなく、深い無力感からくるものだった。彼女は、もう、抵抗する気力さえ失っていた。

「この、女としての尊厳…」

祥子の心の中で、その言葉が反響した。それは、彼女がこれまで、大切に守ってきたものだった。しかし、今、それは、男の乱暴な手によって、無残に踏みにじられていた。

「おばさん、案外いいカラダしてんじゃん」

男の言葉が、再び祥子の耳に届いた。それは、彼女にとって、快楽堕ちの瞬間を宣告する、悪魔の囁きだった。

「もう、やめて…」

祥子の声は、か細く、消え入りそうだった。

男は、祥子の身体を抱き寄せた。その瞬間、祥子は、遠い昔に見た、咲き誇る紫陽花の花びらを思い出した。あの、鮮やかな紫色は、今や、彼女の心に、深い絶望の色となって、焼き付いていた。

「おばさん、案外いいカラダしてんじゃん」

男の声は、遠くで響く雷鳴のように、祥子の意識を断ち切っていく。

楽しいはずのマダムたちのひと時が、快楽堕ちの瞬間に変わる。

それは、静かな住宅街に、静かに、しかし確実に、暗い影を落とした。

祥子は、ただ、その場に立ち尽くすしかなかった。彼女の心は、深い闇へと沈んでいく。

紫陽花の色は、もう、鮮やかな紫ではなかった。

それは、悲しみと、絶望の色を帯びた、鈍い灰色へと、変わり果てていた。