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■ 廃墟の残響

春。桜の花びらが、かつて賑わったであろう校庭に淡く舞い散っていた。もう誰もいない、放置された学生寮の片隅に、古びたノートパソコンが埃をかぶって横たわっている。その画面には、数年前の、まだ鮮やかだった記憶の断片が、静かに、しかし力強く光を放っていた。

「…で、これ、マジでヤバくない？俺の黒歴史、世界に公開しちゃう？」

画面の中の、まだ幼さの残る青年が、満面の笑みでカメラに向かって叫んでいる。彼は、大学に入学したばかりの、所謂「バカ学生」だった。何にでも興味津々で、しかし深い思考を巡らせることは苦手。SNSの「いいね！」の数に一喜一憂し、刹那的な興奮を求めて、些細な出来事を動画にしてはネットにアップロードしていた。その動画のいくつかは、今もインターネットの海を漂い、誰かの目に触れる機会を待っている。

「あの頃は、何もかもが面白くて。自分が世界で一番輝いてるって、本気で信じてたんだよな…」

青年、いや、今は「ニート」として、そのパソコンの前に座っている男、藤原健一は、虚ろな目で画面を眺めた。彼の部屋は、生活感のない、まるで時間が止まったかのような空間だった。壁には、かつて夢中になっていたアニメのポスターが色褪せて貼り付けられ、床には、空のペットボトルや食べかけのカップ麺が散乱している。

大学を中退してから、もう数年が経つ。アルバイトにさえ採用されず、実家からの仕送りも途絶え、彼は文字通り「ニート」として、社会の片隅で息を潜めるように生きていた。かつては、キラキラした世界を夢見ていた。しかし、現実は厳しく、彼は徐々に内向的になり、現実逃避のようにネットの世界に没頭するようになった。

そんな彼が、ある日偶然見つけたのが、自分の過去の動画だった。あの頃の自分を、彼は「バカ学生」と呼んだ。無邪気で、愚かで、そして、あまりにも無防備だった。

「…それにしても、俺、自分のこと、どうでもいいって思ってたんだな。」

健一は、画面の中の自分とは対照的に、冷めた視線で過去の自分を俯瞰していた。あの頃の彼は、自分の行動が、どんな結果を招くのか、全く考えていなかった。ただ、その場のノリで、後先考えずに突き進んでいった。

そして、その無防備さにつけ込んだ「誰か」がいた。

健一は、指先で画面をなぞる。そこには、彼の黒歴史動画のコメント欄があった。見知らぬアカウントからの、悪意に満ちた言葉の数々。そして、その中に、ひときわ異彩を放つコメントがあった。

『貴方の動画、全部見ました。とても…興味深かったです。』

それは、数年前、健一がまだ学生だった頃の、ある一人の女性に向けられたものだった。彼女は、健一の動画に頻繁にコメントを残し、時にはDMで個人的なメッセージを送ってくることもあった。彼女の名前は、神崎詩織。健一と同じ大学に通う、控えめで、どこか儚げな雰囲気を持つ女性だった。

健一は、彼女の存在を、それほど気に留めていなかった。ただ、自分の動画に興味を持ってくれる、数少ない「ファン」の一人だと、漠然と思っていた。しかし、詩織は、健一の想像を遥かに超える、深い「興味」を抱いていたのだ。

「…まさか、あの時、俺、あいつに目をつけられてたなんて。」

健一の脳裏に、詩織の顔が浮かぶ。色素の薄い髪、大きな瞳、そして、どこか悲しげな微笑み。彼女は、健一の動画を「弄んでいた」。それは、言葉の表面的な意味合いとは異なり、もっと暗く、もっと陰湿な意味合いでの「弄び」だった。

詩織は、健一の動画を、ただ視聴するだけではなかった。彼女は、健一の行動の裏側を、彼自身も気づいていないような細部まで、注意深く観察し、記録していた。そして、それを「裏動画」とでも言うべき、独自の「作品」として、秘密裏に編集・公開していたのだ。

健一は、偶然、詩織の「裏動画」の断片を目にしたことがあった。それは、健一の黒歴史動画に、彼女が独自のナレーションやテロップを付け加えたものだった。健一の無邪気な言動を、まるで「愚かな道化」を嘲笑うかのように、冷ややかに解説し、時に、彼が抱えていたであろう内面の葛藤を、巧妙に捏造して語っていた。

「…あれは、俺の動画じゃなかった。あれは、詩織が作り出した、歪んだ俺だった。」

健一は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。詩織は、健一の「バカ学生」ぶりを、まるでコレクションするように集めていた。そして、それを、彼女自身の歪んだ欲望を満たすために、都合の良いように「脚色」していたのだ。

「可哀想な女の子だぁい好き！！」

画面の中に、健一がふざけて口にした言葉が、テロップで流れる。詩織の「裏動画」では、この言葉が、まるで悲劇のヒロインを愛でるかのような、陰湿な響きをもって、繰り返し引用されていた。

「…俺は、あいつに、とことん弄ばれてたんだ。」

詩織は、健一が「バカ学生」であると同時に、「弱者」でもあることを、見抜いていた。そして、その「弱さ」につけ込み、彼を精神的に追い詰めていくことで、彼女自身の優越感に浸っていたのだ。

健一は、過去の動画を次々と再生していく。そして、その度に、詩織の「裏動画」の断片が、脳裏をよぎる。詩織は、健一が「目をつけられた」ことを、まるで賞賛するかのように語っていた。

『彼のような、無垢で、しかし脆い存在に、一度目をつけたら最後。』

『逃れることはできない。永遠に、私の視界の中で、踊り続けるしかないのよ。』

詩織の言葉は、健一の心に深く突き刺さった。彼女は、健一を、まるで虫のように観察し、弄び、そして、その生殺与を握っているかのような、傲慢な態度をとっていた。

「…一生の終わり？そんな、大袈裟な。」

健一は、自嘲気味に笑った。彼は、すでに「一生の終わり」のような状況にいるのだ。社会から切り離され、誰からも必要とされない、ただの「ニート」。しかし、詩織の言葉には、抗いがたい恐怖を感じた。彼女の「弄び」は、物理的な危害ではなく、精神的な牢獄に閉じ込めるような、もっと陰湿で、もっと恐ろしいものだった。

健一は、意を決して、パソコンの検索窓に「神崎詩織」と打ち込んだ。彼女のSNSアカウントを探し出す。数年前の、まだ垢抜けない写真。そして、最新のもの。そこに写っていたのは、数年前とは別人のように、冷たく、そして、どこか妖艶な雰囲気を纏った女性だった。

「…まだ、やってるのか？」

健一は、彼女の近況を調べる。彼女は、今もインターネットの世界で、様々な「対象」を弄び、その「黒歴史」を餌に、自身の優越感を満たしているようだった。彼女の投稿は、直接的な表現は避けているものの、その背後には、健一が経験したような、陰湿な「弄び」の匂いが漂っていた。

「…俺は、あの時、逃げ切れたのか？」

健一は、不安になった。詩織は、健一の動画を、もはや「黒歴史」と断じることはできないだろう。なぜなら、彼女自身が、その「黒歴史」を、永遠に加工し、記録し続けているからだ。健一は、彼女の「コレクション」の一部として、永遠にインターネットの海を漂い続けるのかもしれない。

「…可哀想な女の子だぁい好き！！」

健一は、画面に映る自分の言葉を、もう一度口にした。しかし、その言葉は、もう、あの頃のような無邪気な響きはなかった。そこには、自嘲と、そして、ほんの少しの、共感のようなものが混じっていた。

「…俺も、ある意味、可哀想な女の子、だったのかな。」

健一は、パソコンの画面を閉じた。部屋の空気は、鉛のように重い。窓の外では、春の陽光が、廃墟となった学生寮の窓ガラスに、寂しく反射していた。

健一は、まだ若かった。そして、詩織も、おそらくは、どこかで傷ついた経験を持っていたのだろう。だからこそ、彼女は、健一のような「弱者」に執着し、彼を弄ぶことで、自身の傷を癒そうとしていたのかもしれない。

しかし、その行為は、健一をさらに深い絶望へと突き落とした。そして、今、健一は、その廃墟のような部屋で、過去の残響に苛まれながら、静かに日々を過ごしている。

「目をつけられたら一生の終わり。」

その言葉は、もう、単なる脅し文句ではなかった。それは、健一が、身をもって体験し、そして、今もなお、その重圧に耐え続けている、現実の恐怖だった。

桜の花びらが、静かに、しかし力強く、風に舞っていた。その姿は、まるで、失われた青春の、儚くも、どこか切ない叫び声のようだった。そして、その叫び声は、廃墟となった学生寮に、静かに、しかし、いつまでも、響き続けていた。