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■ 「いいよ」の呪文

週末の金曜夜、 neon の文字が踊る「赤提灯」は、仕事終わりの歓声で満ちていた。ビールジョッキのぶつかる音、賑やかな会話、そして鼻腔をくすぐる揚げ物の匂い。そんな雑多な空間の片隅に、二人の男女がいた。

男の名は健一。30歳。くたびれたスーツに、少しだけ乱れたネクタイ。彼は、目の前で嬉しそうにホッピーを煽る女性、美咲に視線を送っていた。美咲は28歳。華やかなワンピースは、仕事の疲れを微塵も感じさせない。彼女の笑顔は、まるでこの店の雑踏を一層明るく照らすかのようだ。

「いやー、今日も頑張りましたね！」健一は、そう言ってグラスを掲げた。

「本当、お疲れ様でした！」美咲も笑顔で応え、グラスを合わせた。

乾杯の音は、健一の胸に小さな期待を抱かせた。今夜、彼はある「検証」を試みようとしていたのだ。この「赤提灯」は、彼の実験場。そして、美咲は、その被験者候補だった。

「ねぇ、健一さん。今日の料理、どれも美味しそうだね。何食べたい？」美咲がメニューを眺めながら尋ねた。

健一は、心の中で小さくガッツポーズをした。「なんでもいいよ」

「えー、でも、せっかくだから健一さんが好きなもの食べたいな」美咲は少し首を傾げた。

「いや、本当に、なんでもいいんだ。美咲が食べたいもの、それが一番だよ」健一は、努めて穏やかな声で言った。

（よし、第一段階クリア。まだ「いいよ」は出ていないが、肯定的な反応を引き出せた。）

美咲は少し考えてから、「じゃあ、この鶏の唐揚げと、あとは…アボカドとエビのサラダにする！」と決めた。

「いいね！それ、最高」健一は、素直に賛同した。

料理が運ばれてくる間、二人は他愛のない会話を続けた。仕事の話、週末の予定、最近見た映画。美咲は、健一の質問に一つ一つ丁寧に、そして楽しそうに答えていく。

「そういえば、週末は何するの？」健一は、さりげなく核心に迫る質問をした。

「うーん、友達と買い物かな。あと、行きたいカフェがあって」美咲は、屈託なく答えた。

「へぇ、カフェか。どんなカフェ？」健一は、さらに深掘りする。

「なんか、隠れ家みたいな、お洒落なカフェなんだ。手作りのケーキとか、美味しいらしいよ」

「なるほどね。いいね、そういうの。でも、もし、もしだよ？もし、急に予定が空いたりしたら、どうする？」

美咲は、少し不思議そうな顔をした。「急に予定が空いても、特に予定はないから、家でゆっくりするんじゃないかな」

健一は、内心、舌を巻いた。美咲は、率直で、裏表のない人間なのだろう。だからこそ、彼の「検証」は、より難易度が高いかもしれない。

「そっか。でもさ、たまには、そういう予定のない日も、ちょっとした刺激が欲しくなったりしない？」健一は、酔いのせいもあって、少し大胆な言葉を口にした。

美咲は、健一の顔をじっと見つめた。その瞳には、好奇心のようなものが宿っていた。「刺激？どういう刺激？」

健一は、息を呑んだ。ここだ。ここが勝負どころだ。

「うーん…なんていうか、普段とは違う、ちょっと大人な夜とかさ」健一は、言葉を選びながら、それとなく伝わるように話した。

美咲は、ふっと微笑んだ。「大人な夜ねぇ…」

彼女の表情から、健一は、彼女が彼の意図を理解しているのか、それとも単に洒落た会話を楽しんでいるのか、判断がつかなかった。

「例えばさ、もし、急に『今から会えない？』って誘われたら、どうする？」健一は、さらに踏み込んだ。

「うーん…相手によるかな？」美咲は、けろっとしている。

「もちろん、相手によるんだけどさ。でも、もし、その…なんていうか、そういう関係になってもいいかな、って思える相手だったら？」健一は、もう後戻りはできないと悟り、腹を括った。

美咲は、一瞬、きょとんとした顔をして、それから、ふふっと笑い出した。

「健一さん、面白いこと言うね」

「いや、真面目な話だよ」健一は、真顔で答えた。

「でも、もし、そういうことだったら…」美咲は、言葉を区切り、健一の目をまっすぐに見つめた。「…いいよ」

その瞬間、健一の心臓が早鐘を打った。

「…え？」

「いいよ。もし、そういうことだったら、いいよ」美咲は、もう一度、そう言った。その声には、迷いも、ためらいも、一切感じられなかった。まるで、当たり前のことを言うかのように。

健一は、一瞬、自分が今、何を聞いたのか、理解できなかった。彼は、美咲が「いいよ」と言うことを、ある程度期待していた。しかし、まさか、こんなにもあっさりと、しかも、自身の意図を正確に理解した上で、肯定的な返事をもらえるとは思っていなかったのだ。

「…本当に？」

「うん、本当だよ」美咲は、悪戯っぽく微笑んだ。「健一さん、今、私のこと、どう思ってるの？」

健一は、一瞬、言葉を失った。まさか、自分が「チョロいもんだ」と心の中で呟いていたその状況が、現実になった。しかも、相手は、予想以上に、彼の「検証」を簡単に見破っていた。

「いや…その…」健一は、顔を赤らめた。

「ふふ、やっぱり。健一さん、私と一夜限りの関係になりたいんだ？」美咲は、楽しそうに笑った。

健一は、観念した。「…まぁ、そういうつもりだった、かな」

「なるほどね」美咲は、グラスに残ったホッピーを一口飲んだ。「でも、私、そういうの、初めてなんだ」

「え？」健一は、驚いた。美咲の堂々とした態度から、てっきり経験豊富なのかと思っていた。

「だから、ちゃんと、責任取ってくれる？」美咲は、真顔で尋ねた。

健一は、一瞬、固まった。責任？一夜限りのはずなのに？彼の「検証」は、思わぬ方向へと進み始めていた。

「えっと…」

「嘘。冗談だよ」美咲は、また笑い出した。「でも、健一さん、本当に私とそういう関係になりたいんだ？」

「…うん」健一は、正直に答えた。

「ふーん。じゃあ、私、今から健一さんのこと、すごく欲しくなっちゃったんだけど」美咲は、健一の腕をそっと掴んだ。その指先が、健一の肌を撫でる。

健一は、心臓が破裂しそうだった。彼の「検証」は、予想を遥かに超える展開を見せていた。

「…え、どういうこと？」

「そのままの意味だよ。健一さん、私を、満足させてくれる？」美咲は、上目遣いで健一を見た。その瞳は、まるで誘うように輝いている。

健一は、もう、彼の「検証」のことなど、どうでもよくなっていた。目の前にいる美咲の魅力に、完全に心を奪われていた。

「…もちろん」健一は、震える声で答えた。

「じゃあ、この後、どこか静かなところに行こうか？」美咲は、健一の手を引いた。

健一は、美咲に導かれるまま、立ち上がった。賑やかな居酒屋を後にし、夜の街へと歩き出した。彼の頭の中は、もはや「検証」の成功などではなく、目の前の女性への、純粋な欲望で満たされていた。

「いいよ」という魔法の言葉は、確かに健一に勝利をもたらした。しかし、それは、彼が想像していたような、一方的な「チョロさ」の勝利ではなかった。むしろ、美咲という、賢く、そして大胆な女性との、スリリングな駆け引きの始まりだったのだ。

夜風が、二人の顔を撫でていく。健一は、美咲の隣を歩きながら、これから始まるであろう、未知の夜に、期待と、少しの不安を抱いていた。彼の「検証」は、成功した。しかし、その先には、彼が想像もしていなかった、官能的な世界が広がっていた。そして、彼は、その世界に、自らの意思で足を踏み入れようとしていた。