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■ 湯けむりに揺れる欲望 ～五十路温泉物語～

都会の喧騒から逃れるように、私は一人、山奥の秘湯へと向かっていた。目的は、日頃の疲れを癒すこと、それだけのはずだった。しかし、その温泉宿に足を踏み入れた瞬間、私の静かな旅は、予測不能な方向へと舵を切ることになる。

宿は、古き良き日本の趣を残した、風情ある佇まいだった。木造の廊下は歩くたびにギィ、ギィと心地よい音を立て、窓の外には新緑が目に眩しい。チェックインを済ませ、案内されたのは、広々とした和室。一人で使うにはもったいないほどの空間だ。

部屋に荷物を置くなり、早速、露天風呂へと向かった。冷たい空気に肌を撫でられながら、温かい湯に身を沈める。肌にしっとりと染み渡る温泉は、旅の疲れを優しく洗い流してくれるようだ。湯けむりが立ち上り、あたり一面がぼんやりとした幻想的な光景に包まれる。

ふと、湯船の向こう側から、かすかな話し声が聞こえてきた。気配を感じ、そちらに目をやると、そこにいたのは、私と同年代、あるいはそれ以上の年齢であろう二人の女性だった。一人は、艶やかな黒髪をきっちりとまとめ、上品な浴衣を纏った、どこか妖艶な雰囲気を持つ女性。もう一人は、ショートカットで活動的な印象の、朗らかな笑顔が印象的な女性だった。

「あら、こんにちは」

艶やかな黒髪の女性が、私に気づき、微笑みかけた。その微笑みには、どこか人を惹きつける魔力のようなものがあった。

「こんにちは」

私も自然と、それに答えていた。

「一人旅なんですね。素敵だわ」

ショートカットの女性が、屈託なく話しかけてくる。

「ええ、少し、気分転換に」

「わかりますわ。たまには、こういう隠れ家みたいなところに来ないとね」

艶やかな黒髪の女性が、同意するように頷いた。

そうして、私たち三人の間には、穏やかな会話が生まれていった。温泉の泉質のこと、この辺りの名物料理のこと、そして、それぞれが抱える日常の些細な悩みや喜びまで。年齢を重ねた女性たちが、肩肘張らずに本音で語り合う時間。それは、都会ではなかなか得られない、貴重なひとときだった。

しかし、その会話の端々に、どこか普段とは違う、隠しきれない欲望のようなものが漂っていることに、私は次第に気づいていった。それは、女性たちの声のトーン、視線の動き、そして、時折漏れるため息に、滲み出ていた。

「ねぇ、この宿、夜になると、すごく雰囲気が変わるらしいわよ」

艶やかな黒髪の女性、綾子さんが、意味深な笑みを浮かべながら言った。

「え、どう変わるんですか？」

私の問いに、綾子さんは、そっと口元に指を当てた。

「それは…秘密。でも、きっと、あなたの期待を裏切らないと思うわ」

その言葉に、私の心臓が、ドキリと高鳴った。

その夜、私は、綾子さんと、もう一人の女性、静香さんを、夕食に誘った。個室の食事処で、地元の銘酒と旬の料理を堪能しながら、会話はさらに弾んだ。昼間の温泉での出会いが、夜になると、より親密なものへと変わっていくのを感じた。

「あのね、私、最近、ちょっと退屈してたのよ。毎日同じことの繰り返しで」

静香さんが、グラスを片手に、少し寂しそうに言った。

「わかります。私も、いつの間にか、刺激のない日々を送っていたことに気づいて。だから、こうして、一人で旅に出てみたんです」

私も、正直な気持ちを口にした。

「そうなのよね。でも、旅先で、こうして素敵な出会いがあるなんて、思ってもみなかったわ」

綾子さんが、私と静香さんの手を取った。その指先が、私の手に触れる。ひんやりとした指先が、私の体温を奪うような錯覚に陥った。

「ねぇ、せっかくこんなに良い雰囲気なのに、このまま部屋に帰るのは、もったいないと思わない？」

綾子さんが、甘く囁いた。その言葉に、静香さんも、同意するように頷いた。

「そうね。もっと、こう…、夜を楽しみたいわ」

静香さんの瞳が、キラキラと輝いた。

その瞬間、私は、この旅が、単なる温泉旅行ではないことを悟った。彼女たちの瞳に宿る炎は、私と同じ、いや、それ以上に燃え盛っているように見えた。

「でも、どうやって…？」

私は、まだ戸惑いを隠せなかった。

「ふふ、簡単なことよ」

綾子さんが、私の耳元に顔を近づける。湯けむりのように甘い香りが、私を包み込んだ。

「この宿は、特別なの。夜になると、色々な出会いがあるって、噂なのよ」

「出会い…ですか？」

「ええ。特に、私たちのような…、年を重ねた女性たちにとって、ね」

綾子さんの言葉の端々に、意味深な響きが混じる。私は、彼女たちの意図を、ぼんやりと理解し始めていた。

「でも、私は…」

「大丈夫よ。初めてでも、きっと、あなたも、この夜の魔力に、魅了されるはずだわ」

綾子さんは、私の肩を抱き寄せた。その温もりと、ほのかに漂うアルコールの匂いが、私の理性を鈍らせていく。

「それに、私たち、三人とも、独り身でしょ？」

静香さんが、悪戯っぽく笑った。

その夜、私たちは、一度部屋に戻り、それぞれに浴衣を纏い直した。綾子さんは、より艶やかな、深い色の浴衣を。静香さんは、可愛らしい花柄の浴衣を。私は、一番シンプルな、淡い色の浴衣を選んだ。

そして、再び、宿の奥にある、薄暗いバーへと向かった。そこには、すでに数組の男女が、静かにグラスを傾けていた。年齢層は様々だったが、どこか、私たちと同じような、解放された空気が流れているように感じられた。

「あら、三人でいらしたの？」

バーテンダーらしき男性が、私たちに声をかけた。その男性も、どこか妖艶な雰囲気を纏っていた。

「ええ、そうよ」

綾子さんが、自信に満ちた笑顔で答えた。

私たちは、一番奥の、少し secluded な席へと案内された。そこで、さらに酒が進むにつれて、私たちの間の空気は、より熱を帯びていった。言葉は、次第に少なくなっていく。代わりに、視線が、触れ合う指先が、互いの体温を伝え合う。

「あなた、素敵ね」

綾子さんが、私の頬にそっと触れた。その指先が、優しく、しかし、確かな意志を持って、私の肌をなぞる。

「あなたこそ、とても…」

私の声は、震えていた。

静香さんが、私のもう片方の頬に、そっと手を添えた。二人の女性の温かさが、私を包み込む。その温かさは、心地よく、そして、次第に、抗えないものになっていった。

「もう、我慢できないわ」

綾子さんが、私の唇に、ゆっくりと唇を重ねた。その瞬間、私の全身に、電気が走ったような感覚が走った。静香さんの指が、私の背中を優しく撫でる。

「私たちも、加わっていい？」

静香さんが、甘く囁いた。

私は、ただ、頷くことしかできなかった。

その夜、湯けむりの向こうで、私たちの熱い夜が始まった。屋根の下で、旅という解放された空間で、年齢や経験は関係なく、ただ純粋な欲望に突き動かされるまま、私たちは、互いを求め合った。それは、今まで知らなかった、自分自身の奥底に眠っていた、もう一人の自分との出会いでもあった。

一泊二日の、短い、しかし、強烈な、温泉物語。それは、私にとって、忘れられない、そして、これからも、心の奥底で、静かに燃え続ける、秘密の炎となった。