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■ 「あの頃」に魅せられて

「同窓会なんて、どうでもいいと思っていたんだけどね。」

グラスを傾けながら、私は思わず漏らした。隣に座る健一も、同じように苦笑いを浮かべる。大学時代の友人たちと集まるのは、卒業以来、実に10年ぶりだ。会場は、かつてよく通った居酒屋。煙草の匂いと、賑やかな話し声が、あの頃と変わらない空気感を作り出していた。

正直、最初は乗り気ではなかった。SNSで「懐かしいね！」とメッセージを送り合う程度で十分だと思っていたし、何より、現在の自分の姿を、過去の栄光にしがみつく昔の友人にどう見られるか、という不安もあった。仕事はそこそこ順調だが、結婚はしていない。世間一般で言う「婚活」というものとは無縁の生活を送っていた。だから、この同窓会が、どこか「婚活パーティー」のような空気を帯びてしまうのではないかと、内心危惧していたのだ。

しかし、実際に集まってみると、私の心配は杞憂に終わった。もちろん、皆、それぞれに人生を歩んでいる。医者になった者、起業した者、子育てに奮闘する者。当然、外見も、あの頃とは変わっている。けれど、それ以上に、目を輝かせて過去の思い出を語り合う姿に、私は次第に引き込まれていった。

「覚えてる？あの夏、学祭で徹夜で準備して、結局、模擬店の売り上げが全然でなくてさ…」
「あはは！あの時、〇〇（共通の友人）が、酔っ払ってステージで熱唱してたやつね！あれは伝説だよ！」

くだらないことで笑い転げ、学生時代の愚痴を言い合い、時には、あの頃は言えなかった本音を打ち明ける。そこには、職場や日々の生活で背負っている「自分」ではなく、ただ純粋に「あの頃」の自分に戻れるような、心地よい一体感があった。

「そういえば、君、昔は〇〇（特定の女子学生）のこと、ずっと見てたよね？」
健一の悪戯っぽい質問に、顔が熱くなる。
「いやいや、そんなことないだろ！」
「あったって！俺、ちゃんと見てたんだから。」
周囲の友人たちも、面白がってからかってくる。

その夜、私たちは、まるでタイムスリップしたかのように、学生時代の思い出を共有し続けた。初めての恋、失恋の痛み、くだらない喧嘩、そして、未来への漠然とした期待。それぞれの記憶が、点と点で繋がっていく。それは、失われたはずの、かけがえのない時間だった。

そして、この「安心感」が、静かに、しかし確実に、参加者たちの心に変化をもたらしていた。

二次会は、さらにディープな空間へと移っていった。カラオケボックスに場所を移し、年代物のJ-POPを熱唱する者、懐かしいアニメの主題歌を口ずさむ者。学生時代によく遊んだゲームセンターの話題で盛り上がる者もいた。

そこで、私は、ある異変に気づき始めた。

それまで、皆、配偶者や恋人の話も交えながら、和やかに談笑していた。しかし、夜が更けるにつれて、その話題が徐々に、学生時代の「あの頃」の恋愛話へとシフトしていったのだ。

「そういえば、僕、当時〇〇（昔の彼女）のこと、すごく好きだったんだけど、結局、告白できなくてさ。」
「あー、わかるわかる。俺も、〇〇（昔の片思いの相手）のこと、ずっと諦めきれなかったんだよね。」

かつて、淡い恋心を抱いていた相手。結婚している友人、そうでない友人。その垣根が、薄れていく。学生時代の、純粋で、少しばかり無謀だった恋の記憶が、酒の力と、この特別な空間の「安心感」によって、蘇ってくる。

「あの頃は、本当に純粋だったよね。今みたいに、色々と考えなくて済んだ。」
誰かが、ぽつりと呟いた。その言葉に、皆、深く頷いた。

そして、その夜、私が見た光景は、まさに「安心感からの不貞行為が急増中！」という、あの、まるで週刊誌の見出しのような言葉を具現化したものだった。

私の大学時代の恋人だった健一は、結婚していた。しかし、その夜、彼は、昔の恋人である美紀と、まるで別れ際にでも戻ったかのように、親密に話していた。美紀も、彼氏がいると言っていたが、その目は、昔の健一に向けられていた。

「ねぇ、健一、覚えてる？あの時、二人で初めて行った花火大会。」
「ああ、覚えてるよ。君、浴衣がすごく似合ってたな。」
「あの後、駅まで歩いて帰った時、君が、少しだけ、私の手、握ってくれたじゃない？」
「…うん。」

二人の会話は、次第に、親密なものになっていく。周囲の友人たちは、それを咎めるでもなく、むしろ、どこか遠い目をして、自分たちの過去の恋愛に浸っているかのようだった。

「私、昔、〇〇（別の友人）のこと、ちょっと好きだったんだ。」
隣で、私と同じように、少し距離を置いていた友人の真由美が、囁いた。彼女も、結婚はしている。
「へえ、そうなんだ。」
「だって、あの頃の〇〇、すごく優しかったんだもん。今みたいに、全然、怒ったりしないし。」

真由美は、そう言いながら、視線で、昔の親友である〇〇を追っていた。〇〇は、別のグループで、昔の恋人について熱く語り合っている。その表情は、まるで、あの頃の自分を取り戻そうとしているかのようだった。

さらに衝撃的だったのは、私がかつて、ほんの少しだけ気になっていた、もう一人の友人、達也のことだ。彼は、昔から寡黙で、あまり目立たない存在だった。しかし、その夜、彼は、学生時代に彼が片思いしていたらしい、今は妻子持ちの友人と、二人で静かに話していた。そして、その会話の合間に、達也の顔に浮かんだ、あの頃のような、切ないような、それでいて、どこか満たされたような表情を見た時、私は、この「安心感」というものの恐ろしさを、改めて実感した。

それは、決して、現在のパートナーを軽んじているとか、不誠実だとか、そういう次元の話ではなかった。もっと根源的な、人間の、失われた「あの頃」への憧憬、そして、その頃の自分自身への、ある種の「帰還」のようなものだった。

「大丈夫かな、私。」
ふと、自分の心に問いかけた。私も、学生時代の、あの頃の自分を、どこかで求めているのだろうか。あの頃のように、素直に、純粋に、誰かを好きになれた自分を。

「で、どう？やっぱり、来てよかった？」
健一が、私の肩に手を置いた。その手は、昔と変わらず、温かい。
「うん、よかった。でも、ちょっと、色々と、考えさせられた夜だったかも。」
私は、そう答えた。

会場を出ると、外は、ひんやりとした夜風が吹いていた。懐かしい友人たちとの別れは、どこか名残惜しかった。

同窓会は、単なる「婚活パーティー」ではなかった。それは、参加者全員が、それぞれの「あの頃」という名の宝箱を開け、そこに詰まった、色褪せた、しかし眩しいほどの思い出を、もう一度、分かち合う時間だった。そして、その「安心感」は、過去の自分と現在を繋ぎ、時に、禁断の果実へと手を伸ばさせる、甘く、危険な誘惑でもあったのだ。

家に帰り、ベッドに横たわりながら、私は、あの夜の出来事を反芻していた。後悔はない。むしろ、あの夜の出来事は、私に、人生の、ある一面を、鮮烈に教えてくれた気がする。

「あの頃」に魅せられて、人々は、時に、道を踏み外す。それは、人間の、抗いがたい、感情の奔流なのかもしれない。そして、私は、その奔流の、ほんの小さな一部を、この目で見たのだ。

明日から、また、いつもの日常が始まる。しかし、私の心の中には、あの夜の、懐かしさと、少しばかりの切なさと、そして、あの「安心感」の、不思議な余韻が、静かに、しかし確かに、刻み込まれていた。