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■ 偽りの雫

夕暮れ時、橙色の光が西の空を茜色に染める頃、静かな住宅街に不協和音が響き渡った。けたたましいサイレンの音は、いつもの平和な日常を切り裂き、不穏な空気を孕んでいた。

「…おい、ちょっと」

男の声に、俺は顔を上げた。白衣を着た男が、俺の背後から現れる。水道修理屋。そう、今日の午前中、我が家にやってきた男だった。

「どうしたんですか？何か問題でも？」

俺は、顔を拭くのをやめた。鏡に映る自分の顔は、普段より少し疲れているように見える。最近、仕事が忙しくて、なかなか妻とゆっくり話す時間も取れていない。

「いや、そっちじゃない。そっち…」

男が指差す先は、リビングのドア。そこから、妻の悲鳴が聞こえてきた。

「キャアアアア！」

悲鳴に、俺は息を呑んだ。慌ててリビングに駆け寄ると、そこには信じられない光景が広がっていた。

妻が、床に倒れている。その傍らには、あの水道修理屋の男が、血まみれの工具を手に立っていた。

「…お前…何を…」

俺の声は、震えていた。男は、冷たい目で俺を睨みつける。

「邪魔だ、消えろ」

男は、そう吐き捨てると、俺に殴りかかってきた。抵抗する間もなく、俺は地面に倒れ込んだ。

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気がつくと、俺は暗闇の中にいた。どこにいるのか、何が起こっているのか、全く分からない。ただ、身体中が痛い。そして、何よりも、妻のことが心配だった。

どれくらいそうしていただろうか。ふと、微かな光を感じた。ゆっくりと目を開けると、そこは薄暗い部屋だった。俺は、ベッドの上に寝かされていた。

「…ここは？」

俺は、身体を起こそうとした。しかし、身体が思うように動かない。まるで、麻酔でも打たれたかのように、全身が重い。

その時、部屋のドアが開いた。入ってきたのは、あの水道修理屋の男だった。

「目が覚めたか」

男は、無表情で俺を見つめている。その目には、何の感情も読み取れない。

「妻は…どこだ？彼女に何をしたんだ！」

俺は、男に詰め寄った。しかし、男は微動だにしない。

「もう、いない」

男は、そう静かに言った。その言葉に、俺の心臓が凍りついた。

「…何を言ってるんだ…」

「お前も、もうすぐだろう」

男は、そう言うと、俺の手に何かを握らせた。それは、小さな瓶だった。中には、透明な液体が入っている。

「これを飲め」

「…これは、何だ？」

「お前を、楽にしてやる」

男の言葉に、俺は恐怖を感じた。しかし、身体は言うことを聞かない。男は、俺の首に手をかけ、無理やり瓶を口に押し付けた。

苦い味が、口の中に広がる。身体が、熱くなっていく。そして、意識が遠のいていくのを感じた。

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次に目が覚めた時、俺は海辺にいた。夕陽が、海面をオレンジ色に染めている。波の音が、心地よい。

身体は、不思議と軽くなっていた。あの重苦しさは、どこにもない。

「…夢、だったのか？」

俺は、そう呟いた。しかし、手のひらに残る苦い味を思い出すと、それが現実だったことを悟る。

妻は、もういない。俺も、これからどうなるのか分からない。

ただ、目の前に広がる美しい夕陽が、俺の心を少しだけ慰めてくれた。

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数日後、俺は街を彷徨っていた。あの日の記憶は、鮮明に残っている。妻の悲鳴、男の冷たい目、そして、あの苦い味。

俺の身体は、あの液体によって、以前とは変わってしまっていた。些細な刺激にも、敏感に反応するようになっていた。

そして、ある夜、俺はあの水道修理屋の男と再会した。

「…お前か」

男は、俺を見つけると、ニヤリと笑った。

「お前も、変わったな」

男の言葉に、俺は身体を震わせた。

「俺は、どうすればいいんだ？」

「お前は、もう元には戻れない。それを受け入れるしかない」

男は、そう言うと、俺に近づいてきた。そして、俺の耳元で囁いた。

「俺がお前を、満たしてやる」

男の言葉に、俺は抗うことができなかった。

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それから、俺は男の傍にいた。男は、俺の身体を求め、俺はそれに応えた。

俺の心は、壊れてしまったのかもしれない。しかし、男の腕の中にいると、不思議と安心できた。

これは、俺が選んだ道なのか。それとも、あの液体に操られているだけなのか。

分からない。ただ、俺は、このまま男の傍にいるしか、もうできないのかもしれない。

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夜空に、星が瞬いている。静かな夜だ。

俺は、男の寝息を聞きながら、横たわっていた。

もう、何も感じない。ただ、空虚感だけが、俺の心を支配していた。

あの日の出来事が、まるで遠い昔のことのように思える。

俺は、もう、あの頃の俺ではない。

ただ、それでも、あの美しい夕陽が、俺の記憶の片隅に、かすかに残っている。

いつか、俺も、あの夕陽のように、静かに消えていくのだろうか。

そう思いながら、俺は、暗闇の中に、そっと目を閉じた。