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■ 温泉宿の罠

雨が窓を叩く音だけが、私を現実から引き剥がす唯一の音だった。高速道路を運転中、突然のエンジン異音に焦った私は、人気のない山道に車を停めた。幸い、近くに温泉宿の明かりが見えた。藁にもすがる思いで、雨に濡れながら宿の玄関へと向かった。

「すみません、電話をお借りしたいのですが。」

出迎えてくれたのは、恰幅の良い、温和そうな笑顔の主人だった。

「どうぞ、どうぞ。こんな雨の中、大変でしたね。ゆっくりしていってください。」

主人は快く電話を貸してくれた。しかし、携帯電話は圏外。業者に連絡する術はない。途方に暮れていると、主人が声をかけてきた。

「お困りでしょう。今晩はお泊まりになりますか？お部屋、空いてますよ。それに、この辺りは携帯の電波が届かないんです。明日の朝、私の方で車屋さんに連絡しておきましょう。」

断る理由もない。むしろ、親切に申し出てくれた主人に感謝するほどだった。一人旅の寂しさを紛らわせるように、私は宿の暖炉の前で温かいお茶をすすっていた。主人との会話は弾み、彼の話す地元の話や温泉の効能に、私はすっかりリラックスしていた。

「この辺りは、本当に静かで良いところなんですよ。都会の喧騒を忘れて、ゆっくり休んでいってください。」

主人の言葉は、私の心を温かく包み込んだ。しかし、その夜、私の心に静けさは訪れなかった。

静かな寝息を立てていたはずの私を、異様な気配が襲った。目を覚ますと、部屋のドアが開いており、そこに立っていたのは、先ほどまで温和な笑顔をたたえていたはずの主人の姿だった。しかし、その顔には、先ほどの面影はなく、冷たい光を宿していた。

「…何をしているんですか？」

私の声は震えていた。主人はゆっくりと私に近づいてくる。その手には、鈍く光る金属製の棒のようなものが握られていた。

「これは…」

恐怖で体が麻痺しそうになる。私は必死に抵抗しようとしたが、主人の力に圧倒された。彼の顔が、私の耳元で囁く。

「君みたいな都会のお嬢さんは、こういう田舎には似合わないんだよ。」

その言葉の意味を理解する前に、私の意識は遠のいていった。

次に目が覚めた時、私は見慣れない部屋にいた。薄暗く、カビ臭い匂いが鼻をつく。体は自由にならず、冷たい床に寝かされていた。全身に痛みを感じ、頭がぼんやりとする。

「…どこ…」

かすかな声で呟くと、部屋の隅から人影が現れた。それは、先ほどの主人ではなかった。見慣れない、痩せた男だった。

「起きたか。」

男の声は、感情の読めない、乾いた響きを持っていた。

「ここはどこですか？私、どうしてここに…」

「黙ってろ。」

男は私の言葉を遮り、冷たく言い放った。

「お前がここで何をしたか、分かってるのか？」

「何も…何もしていません！」

私は必死に訴えた。しかし、男は聞く耳を持たない。

「もう遅いんだよ。あんたみたいな都会の女が、この静かな村に波風を立てに来たんだ。」

男はゆっくりと私に近づいてくる。その目は、獲物を狙う獣のようだった。

「ここは、俺たちの村なんだ。よそ者が勝手な真似をするのは許されない。」

男の言葉は、私を絶望の淵に突き落とした。隣人がグルになり、女をハメる。そんな漫画のような話が、現実になるなんて。

私は、この村の暗部、そして主人の隠された顔を知ってしまった。彼らは、自分たちの静寂を守るために、私のような「よそ者」を排除しようとしているのだ。

「お願いです、離してください…」

私は必死に懇願した。しかし、男の顔には同情の色は一切ない。むしろ、私を嘲笑うかのような、歪んだ笑みが浮かんだ。

「もう、どこにも行けないんだよ。せいぜい、ここで大人しくしてるんだな。」

男はそう言い残し、部屋を出ていった。ドアが閉まる音が、私の恐怖を一層掻き立てる。私は、この閉ざされた空間で、静かに、しかし確実に、希望が失われていくのを感じていた。

雨はまだ降り続いている。宿の明かりは、今や私にとって、希望の光ではなく、絶望の象徴となっていた。このまま、私はこの村の闇に葬られてしまうのだろうか。その恐怖に、私の体は震え続けた。

（この後、主人公がどのように脱出するか、あるいは、より悲劇的な結末を迎えるかは、読者の想像に委ねられる。）