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■ 刹那の鎖

雨の匂いが濃くなる夜だった。窓の外は、街灯のオレンジ色をぼんやりと滲ませる、濃紺の帳。静寂は、冷たい空気をさらに重くしていた。その部屋に、私は一人、息を潜めるように座っていた。

BOTANの新作。それは、私にとって特別な意味を持つ言葉だった。普段はSNSのタイムラインを流れていくだけの、煌びやかな情報。でも、今回は違った。今回は、私だけのために、彼がそこにいた。

マツケン。

その名前を口にするだけで、胸の奥が微かに疼く。画面越しにしか見たことのない、あの人。圧倒的な色気と、どこか掴みどころのない影。彼は、常に「誰かのため」に存在しているように見えた。その「誰か」に、いつか自分もなれたら。そんな淡い願望を抱いていた。

「おまえのための俺」

このキャッチコピーを見た時、心臓が跳ね上がった。まるで、私だけに向けられた、甘く危険な囁き。他の誰でもない、貴女だけが、彼を独り占めできる。貴女の望むままに、彼は応えてくれる。

そんなこと、あるはずがない。私は、数えきれないほどの「貴女」の中の一人に過ぎない。そう理性では分かっていた。それでも、この禁断の響きに、抗うことができなかった。

彼、松本ケンは、想像以上に、いや、想像を遥かに超えて、控えめな男だった。それは、画面の中の彼からは、到底想像もできないことだった。

「男優は、あくまで黒子に徹すべき」

収録当日、楽屋で初めて会った彼は、まるで別人のようだった。華やかな衣装を身に纏っているにも関わらず、その瞳には、どこか不安げな光が宿っている。声も、普段よりずっと小さく、静かだった。

「…あの、よろしくお願いします」

緊張した面持ちで、彼は私に頭を下げた。その仕草に、胸が締め付けられる。この人が、あの「マツケン」？

「こちらこそ、よろしくお願いします」

私は、努めて明るく応じた。でも、心の中は、複雑な感情で渦巻いていた。期待と、戸惑いと、そして、微かな失望。

撮影が始まっても、彼の様子は変わらなかった。指示されるままに、彼は演じていた。その一つ一つの動きに、彼の内なる真面目さが滲み出ていた。それは、計算された「セクシー」ではなく、純粋な「献身」のように見えた。

「もっと、こっちを見て」

監督の指示に、彼はぎこちなく視線を向けた。その視線が、私の目に絡みついた瞬間、時間が止まったような錯覚に陥った。彼の瞳の奥に、ほんの一瞬、熱が宿ったような気がした。

「…だめ、ですか？」

掠れた声で、彼は私に問いかけた。その声に、切なさが混じっていた。

「いいえ。…とても、綺麗です」

私は、言葉を選びながら答えた。彼の「黒子」であろうとする姿勢。それを、壊してしまいたい。でも、同時に、その真摯さを、壊したくないという思いもあった。

「おまえのためなら、俺は…」

台本にはない、彼の言葉が、突然、私の耳に届いた。それは、まるで、本心からの叫びのように響いた。私の、そして、画面の向こうにいる、数えきれない「貴女」への、彼なりのメッセージ。

その瞬間、私は悟った。マツケンは、決して「誰かのために」演じているのではない。彼は、彼自身の「黒子」であること。そして、その「黒子」という役割の中で、彼にしかできない「愛」を、表現しようとしているのだと。

「…俺の、全てを、受け止めて、くれるのか？」

彼の声は、さらに低く、甘く響いた。それは、誘いであり、願いであり、そして、覚悟だった。

「はい」

私は、無意識のうちに、そう答えていた。彼の瞳が、大きく見開かれた。その瞳に映る私は、普段の私とは、まるで違う顔をしていた。

「俺の、ものに、なれ」

それは、命令であり、呪文だった。私は、その言葉に、抗うことができなかった。

彼の指先が、私の頬に触れた。その冷たさと、指先の熱さが、肌を伝って、全身を駆け巡る。彼は、ゆっくりと、私に顔を近づけてきた。

「…おまえは、俺の、ものだ」

その言葉が、私の鼓膜を震わせた。そして、私の意識は、彼の中に、溶けていった。

それからの記憶は、断片的だ。彼の吐息、肌の温もり、そして、途切れることのない、甘い言葉。彼は、私の全てを受け止めてくれた。私の、どんな囁きにも、どんな望みにも、彼は応えてくれた。

「もっと、俺に、溺れてくれ」

彼の声は、耳元で、熱く響いていた。私は、彼の言葉の海に、沈んでいく。息をするのも忘れそうになるほど、深く、深く。

「…もう、離れられない」

私の声は、自分でも驚くほど、甘く、蕩けていた。彼に、完全に、支配されていた。

「それでも、いい」

彼は、私の髪を、優しく梳いた。その手つきには、愛情と、慈しみ、そして、僅かな悲しみが混じっていた。

「…俺は、ずっと、おまえのことだけを、見ていた」

その言葉は、私にとって、何よりも、心地よい響きだった。本当は、私も、ずっと、彼だけを見ていたのだ。画面越しに、SNSの向こうに、彼の存在を、追いかけていた。

「…全部、捧げる」

私の言葉に、彼の身体が、微かに震えた。

「…俺も、おまえに、全てを、捧げる」

それは、甘く、切ない、約束の言葉だった。

撮影が終わった後、私は、まるで夢から覚めたような感覚に陥った。部屋には、もう彼の姿はない。ただ、彼の残した、微かな香りと、私の体温だけが、そこに存在していた。

窓の外は、雨が止み、空には、淡い月が顔を出していた。

「おまえのための俺」。その言葉が、今も、私の胸の中で、静かに響いている。

彼が、誰のための「黒子」なのか。それは、もう、私には関係なかった。彼が、私のためだけに、存在してくれた。その刹那の鎖が、私を、彼に、繋ぎ止めている。

私は、もう、彼なしでは、いられないかもしれない。

 BOTANの新作。それは、私にとって、単なる作品ではなかった。それは、私自身の、新しい始まりだった。彼という、光に導かれて、私は、自分自身を、見つけ出したのだから。

そして、この刹那の鎖は、これから、どのように、私を、彼を、導いていくのだろうか。それは、まだ、誰にも分からない、秘密の物語。