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香港の喧噪は、由美の心を掻き乱す風鈴のように騒がしかった。殺意の残像が脳裏を焼き付け、逃亡の足取りは依然として焦燥感に染まっていた。夫、哲也の冷たくなった顔が、香港のネオンに反射して見える気がした。浮気、そして殺意。すべては、あの男の冷酷な言葉から始まった。

「もう、君とは一緒にいられない」

その言葉は、由美の心の支柱を根こそぎ奪い取った。哲也との10年間は、彼女のすべてだった。彼の成功を支え、彼の誇りを満たすために、彼女は自分の心を殺してきた。その全てが、一夜の過ち、そして哲也の軽率な言葉によって無に帰した。

香港国際空港に着いた時、由美はすでに自分自身を見失っていた。パスポートは偽名で、現金はわずかに残るのみ。日本での生活は、完全に断ち切られた。不安と恐怖が、彼女を蝕んでいた。

初めての夜、雑多なネオンが輝く歓楽街のバーで、彼女はケニーに出会った。彼は、香港で働くアメリカ人。陽気で、少しだけ粗野な魅力を持った男だった。彼の言葉は、哲也とはまるで違っていた。哲也の冷淡な言葉とは対照的に、ケニーの言葉には優しさがあり、温かさがあった。

一夜を共に過ごした後、由美は不思議な安心感を感じた。ケニーの顔は、酔いによってぼやけて見えたものの、どこか哲也の面影が重なった気がした。その錯覚に、彼女は縋りついた。哲也の面影を、ケニーに重ね合わせることで、彼女の歪んだ心が、わずかながらも安らぎを得たのだ。

翌日、ケニーは由美の状況を察知したのか、優しく彼女の不安を宥めた。「心配するな。大丈夫だ」彼の言葉は、まるで哲也が生きている頃のささやきのように聞こえた。由美は、この男を、哲也の代わりとして利用しようと決めた。

彼女は、香港で手に入れたわずかな貯金と、巧妙な嘘で、高級住宅地の邸宅を借りた。広々とした空間と、高価な家具が並ぶその邸宅は、かつて哲也と暮らしていた家とは似ても似つかぬ豪華さだった。だが、由美にとって、そこは、新たな“家族”を築くための舞台だった。

ケニーを邸宅に連れて行き、由美は彼を監禁した。最初は抵抗もあったが、由美は巧みにケニーを操縦した。哲也を殺した時の冷酷さとは少し違う、しかし確実に冷酷な方法で。ケニーを洗脳するような、まるで躾けるかのように。彼女はケニーに、豪華な食事を与え、高級な服を着せ、まるでペットを扱うかのように可愛がった。そして、彼女自身の歪んだ愛を注いだ。

ケニーは、最初は戸惑っていたが、次第に由美の支配下に置かれていった。由美は、ケニーに哲也の名前で呼びかけ、哲也の趣味を教え込み、哲也が好んだ料理を作り、彼に哲也のように振舞わせた。ケニーは、由美の支配下に従順になり、まるで哲也の影のようになり、由美の歪んだ愛情に溺れていった。

しかし、その“家族”は、虚ろなものであった。由美の心には、常に哲也を殺した罪悪感と、ケニーへの異常な執着が渦巻いていた。彼女は、ケニーを愛しているのか、それとも単に哲也の代わりとして利用しているのか、自分自身にも分からなくなっていた。

夜になると、由美はケニーをベッドに縛りつけ、哲也への復讐の思いを代償行為のように繰り返した。ケニーの抵抗は弱まり、もはや彼女の支配から逃れることを望んでいないようにも見えた。由美の狂気は、日増しに深まっていった。

香港のきらびやかな街並みとは裏腹に、由美の邸宅は、狂気と歪んだ愛で満たされた監獄となっていた。逃亡生活は、彼女に安らぎをもたらさなかった。むしろ、より深く彼女を闇へと突き落としていった。そして、その闇の深淵に、ケニーと、彼女自身も一緒に沈んでいく未来が見えた。

ある朝、由美が目覚めると、ケニーは静かに息絶えていた。彼女は、自分の手でケニーを殺したのか、それともケニーが自らの命を絶ったのか、はっきりとは分からなかった。ただ、彼女の胸には、深い虚無感だけが広がっていた。再び、彼女は一人になった。逃亡生活は、終わりを告げた。しかし、彼女を待ち受けているのは、逃れることのできない罪の意識と、永遠の孤独だけだった。香港の美しい景色は、彼女の心を癒すどころか、さらに深い絶望の淵へと突き落とした。