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■ 檻の中の視線

雨がアスファルトを叩く音が、都会の喧騒に紛れて微かに響いていた。雑踏の中、一人の女性が足早に歩いていた。肩にはブランド物のバッグ、手にはスマートフォンの画面を覗き込んでいる。彼女の名前は綾香。30代半ば、都内のIT企業で働くキャリアウーマンだ。仕事は順調、プライベートも比較的充実している。だが、その日の綾香は、いつもより少しだけ心に余裕がなかった。

「はぁ、また部長ったら…」

溜息をつきながら、彼女はショッピングモールへと足を向けた。週末の買出し。平日は仕事に追われ、なかなか時間が取れない。今日もそうだった。仕事帰りの足で、少しでも早く済ませてしまいたい。

ショッピングモールは、週末の賑わいを見せていた。家族連れ、友人同士、カップル。皆、楽しそうに買い物をしている。綾香も、そんな人波に紛れながら、食料品売り場へと向かった。カートを押しながら、リストに書かれた品物を次々とカゴに入れていく。

「あ、これ買っておこう」

ふと、目に入った限定スイーツ。普段なら、ダイエットを気にして手を出さないだろう。しかし、今日の彼女は少しだけ自分に甘かった。カートにスイーツを乗せ、レジへと向かう。

レジの行列は長かった。スマートフォンの充電も心許ない。綾香は、少しでも時間を潰そうと、SNSを眺め始めた。最新の投稿、友人たちの近況。そこには、キラキラとした日常が並んでいる。自分も、そんな風に生きているだろうか。ふと、そんな感傷に浸る。

「次の方、どうぞ」

店員の声に、現実に引き戻される。会計を済ませ、車へと戻る。車内は、外の雨音とは打って変わり、静寂に包まれていた。

「さて、晩御飯は何にしようかな」

運転しながら、綾香は冷蔵庫の中身を思い浮かべる。今日のスイーツの誘惑に負けた罪悪感と、週末の開放感。そんな感情が入り混じる。

自宅に到着し、荷物を片付ける。冷蔵庫に食材をしまい、一息つく。ふと、スマートフォンの通知音が鳴った。友人からのメッセージだ。「明日、ランチでもどう？」という誘い。

「いいな…でも、明日はゆっくりしたいな」

週末は、普段できないことをする時間。溜まった疲れを癒し、リフレッシュする時間。綾香は、明日は家でゆっくり過ごそうと決めた。

数日後。

綾香は、いつものようにオフィスで仕事をしていた。デスクに座り、キーボードを叩く。集中していると、時間はあっという間に過ぎていく。

その時、彼女のスマートフォンの画面に、見慣れない通知が表示された。

「【閲覧注意】衝撃映像！あなたが映っているかもしれません。」

綾香は、何かの勧誘メールか広告だと思い、無視しようとした。しかし、通知は何度も繰り返される。気になった綾香は、好奇心に駆られ、その通知をタップしてしまった。

表示されたのは、あるウェブサイトだった。タイトルは、衝撃的。「貴女の「油断」が、誰かの欲望になる。」

サイトには、無数の動画サムネイルが並んでいた。その中には、見覚えのある場所、見覚えのある服装の女性たちが映っている。そして、その中の一枚に、綾香は息を呑んだ。

それは、数日前の、ショッピングモールでの彼女だった。

「え…？何これ…」

信じられない思いで、綾香はその動画をクリックした。

流れてきたのは、暗闇の中で、誰かの手によって隠し撮りされた映像だった。ショッピングモールの駐車場。人通りの少ない場所で、綾香は車に乗り込もうとしていた。バッグから鍵を取り出し、ドアを開ける。その時、彼女は、辺りを気にする様子もなく、携帯電話を操作していた。

「まさか…」

映像は、そのまま車内へと続く。綾香が運転席に座り、シートベルトを締める。そして、スマートフォンの画面に顔を近づける。そこに映し出されたのは、彼女がSNSを見ていた時の顔だった。

「嘘でしょう…？」

映像は、まだ続く。車が走り出す。道中、彼女が独り言を呟く声が微かに聞こえる。そして、彼女が向かったのは、ラブホテルだった。

「…！」

綾香は、全身に鳥肌が立った。この映像は、一体いつ、誰が、どのように撮ったのだろうか。彼女のプライベートな空間が、見知らぬ誰かの手に晒されている。

「これは、一体…」

混乱する綾香。動画は、さらに衝撃的な場面へと移っていく。ラブホテルの部屋。ベッドの上。そして、彼女の顔。

「なんで…なんでこんなものが…」

声にならない悲鳴を上げる。映像は、彼女が「油断」した瞬間を、執拗に捉えていた。誰にも見られていないと信じていた、その無防備な姿。それが、無数の視線によって、嘲笑われ、記録されている。

「やめて…やめてくれ…」

彼女は、映像を止めることもできず、ただただ固まっていた。まるで、透明な檻の中に閉じ込められたかのような感覚。逃げ場のない、絶望的な状況。

サイトには、さらに多くの映像が並んでいた。他の女性たちの、同様の「油断」した瞬間。ショッピングモールの更衣室、公共のトイレ、ホテルの部屋。どこにも、誰かの悪意が潜んでいる。

「これは、現実なの…？」

綾香は、震える手でスマートフォンの画面を覆った。しかし、一度見てしまった映像は、彼女の脳裏に焼き付いて離れない。

「誰が…誰がこんなことを…」

怒りと恐怖が混じり合い、彼女の心をかき乱す。そして、ふと、ある疑念が頭をよぎった。

（もしかしたら、これは…）

彼女の脳裏に、ある人物の顔が浮かんだ。最近、仕事で揉めた男性社員。彼の、あの嫌らしい視線。あの時、何かを感じていたのかもしれない。

「いや、そんなはずは…」

しかし、その可能性を完全に否定することもできない。

綾香は、すぐにこのサイトを閉じようとした。しかし、指先が震え、うまく操作できない。そして、画面の隅に、小さく表示された文字に目が留まった。

「この映像は、AV会社に投稿されたものです。あなたのプライバシーを侵害するものではありません。これは、あくまで「ドキュメンタリー」として公開されています。」

「ドキュメンタリー…？ふざけるな！」

綾香は、怒りに震えた。彼女の、最もプライベートな、そして最も脆弱な瞬間が、「ドキュメンタリー」と称されて、不特定多数の人々に見せられている。

「私、どうすればいいの…？」

途方に暮れる綾香。この映像が、どこまで広まっているのか。誰が、これを見ているのか。彼女の知らぬところで、彼女のプライベートが、晒されている。

その瞬間、彼女は、今まで感じたことのないような孤独感と無力感に襲われた。都会の喧騒は、彼女の耳には届かない。ただ、彼女の心の中では、無数の悪意の視線が、彼女を嘲笑っているような気がした。

雨は、まだ降り続いていた。窓の外は、灰色に染まっている。綾香は、ただ、その場に立ち尽くすしかなかった。彼女の日常は、この日を境に、静かに、しかし確実に、狂い始めていた。

彼女は、知らず知らずのうちに、誰かによって仕掛けられた「檻」の中に囚われてしまったのだ。そして、その檻の鍵は、彼女自身の手には、もう、残されていなかった。